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「人間が求めるもの」

松下政経塾第7期生 宇佐美泰一郎(1987年執筆)

 人類が地球上に誕生して以来、「人間とは何か」の問いは何度となく発せられつづけてきた。そして実に長きに渡って、宗教・哲学・心理学等などが探求し続けながら、未だ絶対にして普遍なる解答を得ていない。この問いに対することは甚だ困難なことかもしれない。
 そこで、私のこの大問題に対するスタンスは、『自らの体験・感情に耳を傾け、「自分自身」をテキストとして、人間が目指すべき最高の段階とは何か、を明らかにする。』というものである。
 確かに人間という対象を明確にするのに、一個人である、しかも主観的存在としての自己を通じて観る事自体、いわゆる「科学的」ではないことかもしれない。しかし、こうした根源的な問題にとっては、自らの体の中から沸き起こる、素直な、そしてより深い層からの『魂の叫び』にこそ本質的な解答が存在するものと信ずるからである。そして、その底には「自分もまた一人の人間であり、一つの生命である。」との信念があるからでもある。

 それでは「人間にとっての目指すべき最高の段階とは何であろうか?」。この
問いに対する私の結論は、「人間が最も人間らしく生きることであり、深い宗教性を保持すること」である。(この場合の宗教性とは、特定の宗教・教義を指すものでなく、時空を越えた普遍性・絶対性を意味するものである。すなわち、真善美を超えた聖を指す)。
 それは要約すれば以下の3点に集約される。(1)自己の尊厳(2)人間の尊厳(3)生命の尊厳。これら3つを同時に、より深く持つことに他ならない。以下に3点の説明を行う。

(1) 自己の尊厳

 「自己の尊厳」とは何であろうか? そもそも現実の社会を生きている人間には、喜びも悲しみも、嬉しさも哀しさも同時に持ち合わせ、思い出したくない過去の思い出や苦しい現実を背負って生きているものである。
 しかし、たとえそのような苦しみに向かっている自分自身であっても、他人と比べて羨んだり、あるいは自分自身を蔑んだりすることなく、今ある自分の
存在そのものをすべて受け入れることから、あらゆる進歩は始まるのである。
 どのようなことがあろうと、自分自身と他者とは入れ替わることが出来ない。つまり、自分という存在は、それ自体絶対のものなのである。たとえ、それが死に直面した病床の人であっても、どんなに大きな苦しみを抱えた人であっても、「いまここにいる自分」という存在は、世界の中でたった一つの、かけがえのない存在なのである。
 人が自分自身の全てを受け入れた時にこそ、初めて「自分は生きているのだ。」という生の感動と喜びに満ち溢れ、人生の可能性と輝きとが生じ、自己に対するいとおしさと誇り、つまり「自己の尊厳」が生まれ出るのである。

(2) 人間の尊厳

 自らの得たそうした生の感動とは単に自己の中の枠だけで終わるものではない。自分の中の深層に存在する喜びや悲しみ、苦しさ、そしてそのときめきと感動は、ともに生活する親や兄弟家族、仕事仲間や友人、妻や恋人の誰もの中に、そしてそれは国境を越え、民族や言語の違いを超えて、あらゆる人間の中に見出しうるのである。
 他者の中に自己を見い出し、自らをいとおしむように他の人をもいとおしみ、あらゆる人間と「ともに生きている」という『魂の叫び』を聞いたとき、初めて人と人の心が触れ合い共鳴し、他者に対する本当の愛が生まれる。どんなものでも、無条件に自らの中に取り入れ許容しうる『愛の枠』が、自己を越えて拡大を始める瞬間でもある。この結果、「自己の尊厳」はさらに発展し、ともに生きる人間同志として「人間の尊厳」が力強く芽生えるのである。

(3) 生命の尊厳

 最後にこうした「自他の一体化」という実感は、その人間の世界を観る眼を一変させてしまう。あらゆるものが新鮮で、自分自身の体の一部のように、ひしひしと強く感じるのである。路上に遊ぶ一匹の子犬、木陰に咲く小さな花にさえ愛情は広がり、そこに生命の息吹と輝きを覚えるのである、
 「世界は、そして宇宙は自己と切り離されたものではなく、自分自身と連綿としたつながりを持ち、根源的には同じ一つの生命なのだ」という喜びが、ふつふつと湧き上がってくるのである。
 それはちょうど母親の子宮の中にいる胎児のように小さな力で必死に生きている、その一方で羊水の中に浮かび、その中で守られ生かされているのと同じである。
 宇宙と自己との一体感、そして生きとし生けるものとしての「生命の尊厳」を体現したとき、『愛の枠』は全てのものを飲み込み無限に広がっていくのである。

 自我という名の「閉ざされた自己」という器に満たされた生命の水は、ある時を境に堰を切ったように勢いよく外へ流れ出す。そしてその生命の水は、自己から人間へ、人間から生命へと、時空を越えて無限に広がっていく。そしてその結果、「閉ざされた自己」は、「開かれた自己」へと形を変える。
 形ある器は外部から強い衝撃があると、形が壊れ中の水を保つことは出来ない。形をもった「閉ざされた自己」が、その中にある限られた水にこだわり守ろうとすればするほど、まさしく自我という目に見える形を保とうとする。
 しかし、「開かれた自己」として形を持たないならば、足りないときに外から水か流れ込み、余った時には外へと流れ出し、常に生命の水で一杯に満たされているのである。
 人間が「閉ざされた自己」を越え、「開かれた自己」に形を変えたときにこそ
真の意味での「自己の尊厳」、「人間の尊厳」そして「生命の尊厳」を持ち得るのであり、人間にとって最高の至福をもたらすものと信ずる。