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第8章 立志(改革の草ダンゴの串をとおすには)

 それで、最後にこの3つのダンゴが完成します。しかし、これがバラバラでは意味がありません、一つの事業、一つの人生によって、おダンゴに串をとおそうとすると、必ずどこかで前に言った壁にぶちあたるんです。

 だから志をたてるには、時間と忍耐、そして執念が必要です。これをのりこえることでそれぞれのおダンゴが大きくなり、人間も大きくなるわけです。私の場合もそれぞれのおダンゴを作る過程で大きな壁がありました。

 まず一番下のおダンゴ。どうやって食っていくか。私の場合は先程お話したアメリカに研修に行ったときでしたね。フランクに手紙を書いたんだけれどもぜんぜん返事がこないんです。それで、いくらまっても駄目なんでアメリカに押し掛けていったんです。

 短期滞在のビザで。政経塾にいればタダ飯が食えるけれど、そこから飛び出したらそうはいかない。そのときは必死の覚悟をしました。で、実際に行ってみたらあっさり迎え入れてくれたんです。「返事を書いたんだが、カバンから出すのをすっかりわすれていたよ」って言われました。それで、メタネットで働く事になって次の展開がうまれた。あのとき、もしすぐ返事が来ていたら今の自分はなかったでしょうね。やはり重要なのは「勇気」です。なんでも挑戦してみる勇気。

 次に、自分の本当にやりたい事を実践しようとする時にはすごく勇気がいります。アメリカから帰ってきて卒業だというのに仕事がない。いろいろなところへ行ったけれど駄目だった。

 そして、さっき話したように政経ネットをやることになって、なんとか食べていく道は確保できたが、なかなか自分の思うようにいかなくて。自分のやっている事が正しいんだろうかと何度も悩みました。それでも自分を信じて思考錯誤してきました。

そして、松下電器で働かせてもらうようになっても「パソコン通信はマニアのおもちゃじゃないか」なんてことを言われ続けました。しかし、世界中を飛び回ったときに、コンピュータが日本とつながったときのお客さんの喜んだ顔をなんどもみて、自分のやってきた事は間違いじゃなかったんだと実感することができました。

 最後は一番上のおダンゴです。これは同じ松下電器の中で、ゴーストバスターズという改革のチームで仕事を始めたころです。これで、自分のイメージ通りの仕事ができるようになり、また皆さんにお役にたてる実感もこのころからわいてきました。(資料編p86)

 しかし、一方で責任も重く、自分の力量をはるかに超える力を要求され、その狭間でかなり、ストレスのたまった時期もありました。この時は知らず知らずのうちに酒量が増え、まぁ普段でも人並み以上に飲みますが(笑)、いっしょに仕事をしていた人に居酒屋でくだをまいたりしたりしていました。いま考えると「おれが、おれが」になっていたんですね。それで悩んで、幸之助さんはどう考えていたんだろうと、素直な気持ちになって一から考え直しました。また断食をしたり、仏教や東洋哲学の書物を読みあさるなどして、自己修行に勤めたものです。

 おもえばわが師、故松下幸之助創業者が創った松下電器の綱領にもこうあります。「産業人たるの本分に徹し、社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す」ここまでの講演を聞いてこられた方ならピンとくるでしょう。

 実はこの短い文章の中に3つのおダンゴがしっかりはいっているんですね。それに気が付いてから、わが師もやはり、改革の志をたてることで、松下電器の奇蹟的な発展をひっぱってこられたのだと確信しました。

 松下政経塾の塾是のなかで最初に教えられるのが、

素志貫徹のこと 〜 常に志を抱きつつ、懸命になすべきをなすならばいかなる困難に出会うとも道は必ず開けてくる。成功の要諦は成功するまで続けるところにある。

 ですね。皆さんもいつも唱和されていると思います。私は、ここのなかに改革の極意がすべて含まれていると考えます。少し私なりの解釈を聞いてください。

常に志を抱きつつ

 これは「常に」ですから、寝ても覚めてもということでしょう。問題は「志」というものの解釈です。これには、3つの意味があります。

(1)「立志」-正しい目標を立てる

 これは、本日お話しした改革の草ダンゴの3つのおダンゴです。「本当にやりたいことか」、いいかえると自分にうそをついていないか、ということでしょう。それと「社会に貢献することか?お役に立つことか?」そうすれば、本当の充実感と感動が得られます。そして、その上「食っていけるか?身分保証、社会的体面は保たれるのか?」という一番下のおダンゴです。これによって、継続して無理なく、活動を発展継続させて行くことができます。このおダンゴを作るのが正しい目標を立てるということです。

(2)「志節」-やろうという決意する、覚悟する

 せっかくいい目標を立てても、いざというときに勇気がない、腹がすわらない。逃げてしまうことはよくあります。しかし、決めた以上はなんとしてもやると覚悟を決めて決意し、動き出すことです。

 この時重要なのは、「もし、うまくいかなかったらどうしよう。」とか「失敗したらどうなるんだろう。」といった邪念は捨てることです。失敗したっていいじゃないですか。やりなおせばいい。こちらの都合がいつもいつも通るわけじゃない。それにトランプでもそうだけど、いつも思った通りの札が出てきたら、そりゃ勝てますけど面白くないでしょう。それと同じです。気楽に考えたらいいんですよ。真剣におダンゴ3つ考えていたら、必ず運命の女神は最終的に必ず微笑むはずですよ。

(3)「志操」- 何があっても続ける執念を持つ

 さて草ダンゴの最後の串を通す話です。志を貫くというのは、当然嵐や台風のように、行く手を阻む数々の壁が出てきます。しかし、その試練を乗り越える度に自信と勇気が湧いてきて、逆に大きな喜びと自己成長が得られます。そして、「私がやらねばならない」と責任感と腹がすわってきます。

 問題は、なにがあっても続けることです。そこで問題になるのが、人からいわれてやっている、義務でやっている、偉くなりたい、金持ちになりたい、より上の位につきたい、人から褒められたいといった、「私利私欲」、私心があっては出来ません。

 本来自分のやりたいこと、つまり夢から始まっているから、エネルギーが持続でき、お役にたつ喜びと感動があるから勇気が湧き、それで最低限、食っていくことが出来る、家族が養っていけるから、安心して前向きに取り組めるわけです。

 それが、人間、(欲を否定することは出来ませんが)自分の欲に囚われると、あらゆるものが見えなくなり、冷静な判断がつかず盲目になります。ちょっとのことでめげたり、不安になったり、失うことに躊躇したりということで、改革者にとって最も重要な「挑戦する勇気と創造性」を奪われてしまいます。志を操(つまりつらぬくところに)串が一本通るのです。

懸命に為すべきを為すならば

 懸命にとは、まさに文字どおり命懸けです。そして、次の「為すべきを為すならば」、これが少し難しい。人間だれしも「為すべきを為している」と、自分では思い込んでいます。

 ところが、実際はそうではありません、今自分がやっていることは、横着で基本から、はずれたことをやっていたり、せっかくそのことを他人が注意してくれても素直に耳を貸さなかったりしていませんか?

 そして挙句の果てに一、二度やってみて駄目なら、だれかのせい(他責)にして「**だから出来ない」と出来ない理由を考えることに必死になっていませんか?それでは他人はごまかせても、自分はごまかせません。

 そして、自分はごまかせても天はごまかせません。

 重要なのは一度しかない「天から与えられた命(天命)」をどれだけいかそうとするのか?大事に思うか?ということです。

 そして、そういう心の状態は、常に自己成長と向上心の塊になりますから、だれの言葉でも、ちょっとした情報でも何とかして生かそうと思います。そして、いろいろな情報を集めて、ああでもない、こうでもないと思索して見る。少しでもいい方法はないかと創意工夫をこらす。

 これが、「素直な心で衆知を集めよう」とすることです。しかし、志なきところこうした心や行為はうまれません。俺が俺がであれば。

 そしてもうひとつは「苦労はないけど楽な道を歩もう」という安易で低きにながれるもう一人の自分とどこまで戦うか、ということです。どんなに学問を修めた優秀な人でも、この怠惰な自分というものが心のなかに巣くっているものです。改革を行うものにとって、結局最後は自分との戦い、つまり「克己」につきます。そして、これはやっかいなもので、乗り越えたとおもっても、すこしでも油断をすると、色々な誘惑に負けてしまう。私自身も、常に気をつけているのはこのことです。

いかなる困難に出会うとも道は必ず開けてくる

 いかなる困難とは、まさに改革の壁です。改革を進める上では、様々などろどろした人間関係、組織間抗争、心理的抵抗など、こちらの心を苦しめる大きな壁ばかりです。時間もかかるし精神的ストレスやプレッシャーも強い。そして改革を成功させようとすれば、あとには引けない崖淵に立たされているわけで、「うまくやってやろう」という心が焦りをうみ、かえってうまく行かない。

 まさに、武器はもっていませんが、戦場とかわりません。ところが、こうした困難に出会っても、上記のことが満たされていれば、道は必ず開けてくる、つまり活路は見い出されると断言しているのですよ、幸之助「さんは。

 むかしからね、戦いは「天の時、地の利、人の和」こそ勝利の要因という、わかったようなわからないような話が昔から言われますよね。ここではっきりしているのは、「勝利の要因は、己の努力と知恵才覚」ではないことです。つまり、俺が偉いということではない。

 勿論、それも大前提でありましょうが、死と死とをかけた真剣勝負の世界では、最後の一線は、まさに人知を超えた、運というかそういうもんで決まる、紙一重の世界ということでしょうな。

 まあ、最近は平和ボケした世の中ですから、生きるの死ぬのなんて関係ないのでしょうが、しかしまさにぎりぎりの改革の世界では、このことは真理だと思います。

 しかし、重要なことは、上のことを満たせば、その天の時、地の利、人の和が開けてくると、つまり己の力を超えた奇蹟が必ず起きるというのです。ここまでくると一種宗教的ですが、重要なことはこのことを、「信じる」ということでしょう。「信じ切る」というこちら側の心の中の確信の中にこそ、成功の秘訣が隠されているのだと、松下塾主は教えたかったのだろうと思います。

成功の要諦は成功するまで続けるところにある。

 成功という言葉のもともとの語源をたどると、「功」というのは、「小さなことを積み上げること」という意味があり、また「成」とは「成立する、一つのことを成し遂げ評価されること」ということです。つまり、「小さなことをこつこつと積み重ね一つことがなる」という意味です。

 政経塾の卒業生のなかでも、この文章は非常に人気が高く、年賀状なんかに書いて送ってくれる人も多いですね。選挙で終盤に入り、肉体的に精神的に疲れ切っているときに、この言葉を見ると確かに勇気が出ます。力が出ます。

 しかし問題は、我々が「何を成功と見るか?」の方が重要でしょう。よく「小成に甘んずる」という言葉があります。確かに世間的な金とか地位とか権力とか名誉とかいう価値をうることも成功であることには間違いはない。

 しかし、その事は世間一般言う成功であって、本当にそれで幸せだったかどうか、自分として納得行く人生であったかどうかは、おそらくそれとは別の問題でしょう。政治家になることが目的の人にとって、選挙にとおることは成功です。しかし、じゃー落選したらどうなるか?失敗です。こうなると、成功と失敗を繰り返す人生です。浮草のようなね。

 こうなると、人間だれしも失いたくないですからね。一度得たものは。だから地位にしがみつく。当選するためなら、何でもする。結果が現在の政治腐敗です。

 政経塾の創る政治家は、まさにこれとは違います。改革の草ダンゴができてるから。地位に恋々とする必要はない。本当の意味での志が出来ていないとここまでにはなれない。何しろ政経塾というラベルの缶詰には、私利私欲を超えた、つまり草ダンゴの出来た本物の人物が一杯つまってますよと、宣伝してるわけだからね。選挙になると、全員が口をそろえて、同じ台詞いうんですから。

 (こんなことはないとおもいますが)もし志の草ダンゴが出来ていないということになれば社会に対する背信行為ですから。そういうことがないように、しないといけません。塾の生命線でもあります。

 そろそろお時間が来たようです。いずれにいたしましても、今日皆さんにお聞きいただいて本当に感謝します。皆さんにこうしてお伝えしたいと、お伝えできるチャンスがあるからこそ、必死にこれをまとめられたということなんで、本当にきょうは皆さんに感謝してます。

 ぜひ、これでいい研究をしていただいて。ぜひ、自愛の念で改革のテーマをお進めください。自分のためにやってください。そのことを最後にお伝えして、ちょうど時間がまいりましたので終わりたいと思います。

 どうも長時間ご静聴ありがとうございました。

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