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第6章 自分を取り巻く世界をどう理解するか?

6-1 人間にとって幸せって何だろう?

 まず最初、自分というものを考えました。じゃ、今度は人間ってなんだろうなと。一般論を考えてみたいと思います。そうすると、人間にとっての幸福って何かっていう話が出てきます。実は私がこういうことを、このレジメの6?1を書くにあたって考えた、これは大学時代に考えたことなんですが、まさに高校時代は人生のどん底に落ちて、上がっていった後矛盾を孕んだいまをどう生きるかっていう、その課題意識ができて、自分はそれをなんとかしたいと思っていた。その次、大学に入って、御多分に漏れず、サークル活動とかいろいろやろうと思っていろいろやったんだけども、どうも釈然としない。

 で、ある人から聞いて、愕然としてショックを受けて、いろいろ考え出した言葉があるんですよ。なに言ったかというと、「あなた、人生で可処分所得っていう概念がありますね」と。つまり、もうけたお金の中から必要経費を差っ引いて私有に使えるお金。「実は、人生も可処分時間っていうのがあるんですよ」と。つまり、やらなきゃいけないこと、誰かのためにしなきゃいけないこと、絶対義務としてやらなきゃいけないこと。そういう必要経費である時間を差っ引いて、残りの自分がやりたいことができる時間、その可処分時間というのが実は残るんだよ」と。

 私はそれを大学1年の秋口に聞いたんですけどね、いまもしこの中で大学生の方がお見えで、これを聞いたらものすごく、最高の人生のチャンスになりますね。「大学生の4年間は人生の可処分時間の半分が詰まってる」と言われたんです、大学1年のときに。これが、まさに私自身の転機でしたね。

 半分が詰まってるということは、この時間にしかできないことをやろうと思ったんです。そのときにしかできないことってなんだろうか。それでいろいろ考えた。そうすると、大学がある。私は早稲田ですから、古本屋街もあるし、図書館もあるし、東京でしたからいろんな情報も入ってくるし。そうか、そういうものを使い倒さなきゃ損だなと。

 じゃ、人間の人生にとって、その時期っていうのは一体どんな意味があるんだろうか。脳の発達過程をみると、高校時代は先ほどのような「自分はなにか」ということを考える時期、いわゆる思春期ですね。いろんな悩みごとがある。まさに考える時期なんです。それに対して大学時代というのは、いろいろコンセプト、形のないもの、概念、これを考える、形成する。このことを扱える能力を身につける最高の時間だと。つまり哲学する時期です。これは大脳生理学の分野など、いろいろな本に書いてあるんですけれども。

 「そうか、じゃあ、まさにそのことをやろう」と。ということで、早速実に多くの本を読み漁り始め、思索を始めました。ちょうどその時あれこれ考えていた頃に、実はこの「マズローの欲求5段階説」という、それまでのもやもやをズバッと解き明かしてくれる説が出てきたんですよ。

先ほど皆さんにお配りした資料編77ページを見てください。。

 ここを見てください。実はこの表を私はあるところで見たんです。あるところというのは、中小企業診断士の資格を取ろうと思って勉強してて、その労務管理のテキストのところにこれがポッと出てたんです。

 だから、特定の目的のためにやったんじゃないのですが。まったくの偶然でした。実はこれを見たときに、私、目から鱗が落ちたんですよ。いや、ふつうに見てたら、あたりまえじゃないかと思うことだが、私にとってはあたりまえじゃなかったんですね。

 どういうことかというと、さっきの、どん底まで落っこって、成長していく過程がありましたね。あのカーブがまさにこれだなと思ったんです、自分の身に振り返って。どういうことかというと、一番最初、一番下のレベルね。生存の欲求。これはもう食べたり、衣食住の世界です。いわゆる睡眠欲、食欲、性欲といわれるもの。生物としての根本的な本能ですよね。その次、安全の欲求。これはいろいろ危機とか、戦争とかなんかがあったら、まず身を守るという、そういう欲求です。

 そうこうして、その条件が整うと、今度は社会的欲求。つまり、どっかの集団に所属してて身分保証がされてるとか、そういうことによって一応安心するわけですね。そういう社会の中でどう組み込まれるかという位置づけがはっきりしたときの欲求というのがこれです。

 (実はこれ、うちのお袋が倒産してからの心の変化のステップと同じなんです。)そうなりだすと今度は、他から認められたいという欲求が出てくるんです。「俺が、俺が」っていう自我が出てくる。これが自我の欲求。それが満たされだすと、今度はやりたいこと、なりたい自分に対して努力したいという欲求。たぶん皆さんはこのレベルにあるんだろうなと思います。自己実現の欲求というのが出てきます。

 実は、このマズローの説っていうのは、これを書いたときよりもさらに進みまして、この上のレベルに、他者実現、トランスパーソナルっていうレベルが出てきます。今度は自己じゃなくて他者ね。トランスというのは「越える」でしょう。パーソナルっていうのは「自己」でしょう。自己を越えた欲求という意味で、トランス・パーソナルというんです。

 これはどういうことかというと、自己実現の欲求で自分がルンルンしてるわけですよ。今度は自分だけじゃなく他人もルンルンしないと気がすまなくなるんですね。単純なのはお節介というやつです。ところが、相手が受け入れるようになると、これはお節介じゃなくなってくるわけですよ。それが徐々に広がってくると社会貢献になりますね。さらにそれが進んで、みんなが解決できないテーマを背負ってあげましょう、解決してあげましょうっていうのが、まさに世直し、改革ですよね。だから、トランス・パーソナルのレベルもいくつも段階あります。

 例えばまず最初は、身の回りの人にお役に立ちましょう、ボランティアの精神ですね。それを継続性を持って広くやっていこうとなると、先ほどのように、これが社会貢献になってくるわけですね。さらにいえば、みんなができないことを自分たちで背負って立って改革していこう。これはまさに最高のレベルの段階ですね。このことが自分たちで手応え持ってできたら、(この絵を見たらわかるでしょう。)人間として最高の喜びを味わえるということです。これはスゴイことです。

 しかも、(マズローの説によれば)このトランス・パーソナルの段階にはいると、真善美、つまり「何が真実なのか?」、「何が最善なのか?」、そして「本当に美しいことは何か?」これを追及する、そして見極められる感受性、こころが芽生えてくるといわれます。

 そしてこの真善美の段階を通りすぎると、人間としての最高の姿、まさに「聖」の世界にはいる。つまり世直し、改革を追及していくと、聖人君子の世界に入るということでしょうか。ですから非常に尊いことなのですよ。私たちのやろうとしていることは。

 しかも、その進化の過程で、他との相対し方が変わってくる。つまり欲求の満たし方が変わってきます。

 一番低いレベルの時なら外にあるものをただ奪いとるだけです。これは商品であったり、財であったり、要するに、財産みたいなもんだけど、例えば、生存の欲求の場合だったら、食べたいと。ということはお金でもって物を買うという世界ね。食料品買う。それから性欲の世界。これは配偶者獲得のためにいろいろ戦いますわね。あるいはいろいろアピールしますわね。これ、人間の本能ですよ、生物としての。

それから眠りたい。よく警察では、犯人を尋問するときに寝させないようにして、ずっと夜中までライト当てて、寝るな、寝るなってやるでしょう。あれ、3日間、寝なかったら大変なことですからね。死んじゃいますからね、もう。だから、寝ずにずっと徹夜なんかやって、私も最高、3日半やったことありますけど、もうその段階になると、ウトウトして、ちょっとで気が緩むと居眠りしだしてね、そりゃもう、ベッドに入ったら、そのまますぐ深い眠りに落ちて、クーッと寝ますよ。私の時は、そのあと1日半ぐらい寝てましたかね。つまり時間を盗むわけですね。外から取ってくる、奪ってくるわけですよ、この段階では。

 同じく安全の欲求。安全だから、自分の身を守りたいから、武器買って、戦争を引き起こすわけですよ。まさに相手の命を奪う世界ですね。いやだいやだ。

 今度は社会的欲求。これは例えばサラリーマンが自分のポストにしがみつくとか、「寄らば大樹」でね。同窓会で大企業のバッジを見せびらかして、「おい、俺はどこそこ企業だぞ」って威張ってるのと一緒ですね、これは。これも少ない中を奪ってくるという、稀少価値を奪ってくるという世界ですね。

 今度は自我の欲求。これも迷惑な話です。「俺が、俺が」ですから。端で聞かされると、「なんだ、こいつは」と、なんとも腹だたしいい気分になりますね。こんなのは一種の邪魔者ですよ。

 ところが、次のレベルではそれまでとは、欲求の求め方が違ってきます。今度は自己実現の欲求。なりたい自分になりたい。ところが、ここではオタクっていう現象もありますね。厄介なことに充実感を味わって、なりたい自分になれれば、オタクでも自己実現は自己実現です。

 しかし、実はその上の段階になりますと、(これはみんなにギブしていこうと、)これはもうその下のレベルとは全然次元が違ちがいます。奪うんじゃなくてギブする。自己満足じゃなく、貢献する。ここから先が重要なことです。よく「ギブ・アンド・ギブン」ということを言います。与えると、それの何倍かが返ってくる。与えて与えられる。その下のレベルはギブ・アンド・テイクです。先にギブして、あとでテイクする。ところが、巷では(悲しいことに)もっと下のほうのレベルの人た

ちがたくさんいますから、テイク・アンド・テイクの人が多いですよね。これをやってると、世の中、どんどん資源が枯渇してくるんです。だから、己のためによければ、「いいじゃねえか、ちょっとしたことじゃねえかよ」って、そのへんにどんどんと不法駐車してみたりとか、川に洗剤流して蛍が死んじゃうとかね、そういうことになるわけです。

 実はね、私はマズローの欲求5段階説を見つけて、一瞬にしてこのことがね、目から鱗が落ちるぐらいに大きな衝撃を受けたんです。ここから自分なりにいろんな思索をどんどん展開していきました、(ここに書いてますように、)このことを満たしていくのがやっぱり人間の幸福なんだろうなと。しかもそれには、(いま言ったような)いくつもの段階があるわけです。その段階をどう上っていくか、それが我々に与えられた命題です。

 それからしばらく研究を続けていたとき、「人間の本性に関する7つの理論」(エル・スティーブンソン、未来社、1982)っていうこれまた大いに触発される本に出会ったんです。これ、大学の2年生の春ぐらいかな。これもものすごいショッキングでした。マズローのことを考えてて、実はこのことを社会変革に応用した人がいたんですよ。(実家のほうにあるんで、ちょっと著者名と出版社は、後日調べて持ってきますが。)どういう人かというと、非常におもしろい人で、7人の偉大なる哲人を取り上げて、イエス・キリスト、釈迦、マルクス、それからサルトル、ニーチェ、それからスキナーという動物行動学の人。フロイト。その人たちがどういう人間観を持ったかということをまず分析するんです。

 それぞれ違うんですよ。端的にあらわすんですよ。イエス・キリストは、人間はハートだと言ったと。つまり、愛であるということね。お釈迦様は、人間は宇宙であると言ったと。つまり、宇宙と一体なんだと。フロイトは、人間は生殖器であると言った。つまり、性的な欲求不満が人間の人格を形成すると考えたんです。マルクスは、人間は胃袋であると言ったと。つまり、食うことが全てだと。経済の下部構造が上部構造を引っ繰り返すんだということを言ったと。スキナーは動物行動学ですから、なんか刺激与えて、どんなことをするかと。パブロフの犬って知ってますよね。あのへんのことなんです。スキナーは、人間は動物であると言ったと。

 つまり、それぞれは人間をどう見るかっていう尺度が違う。そのことを通じて彼らはこう分析したというんですね、つまり著者の主張は、「それぞれの人間観があって、世界観が出てきて、そこから今の課題が抽出されて、しかもその処方箋は何かという風にそれぞれの人が考えたのだ」と主張するわけです。例えばマルクスを例にとるなら(その人の説によると)、人間は胃袋である。しかし、原材料、資源は有限である。だから、葛藤が起こるんだ。富むやつと富まないやつがいるんだ。これが世界観。富まないやつは、それで不幸なんだと考えるわけですよ。これが課題です。いわゆる資本論でいう、下部構造が上部構造を引っ繰り返すという処方箋を書いて、その改革を実現しようとしたわけね。つまり、社会構造というのは「人間観―世界観―課題の浮き彫り―処方箋―改革の実践」というパターンがあるのだというのです。これ、非常にすばらしい本だなと。これがね、まさに自分がやっていこうということに一つの枠組みを、フレームワークを啓示してくれたようなそんな気がしました。

 ところが、私は単純に著者の主張を鵜呑みにすることなく、ちょっと違う考え方を持った。確かにこの人の言うように人間は胃袋でもあり、脳味噌でもあり、生殖器でもある。しかし、(私の考えは)これらはどれが重要化というのではなく、全てが要素として連なっているんだと考えたわけです。そのことを結びつけるのがマズローでした。それぞれの要素に満たされる順番があるんだなと考えました。つまり、下のほうの、人間は動物であるといったスキナーは、まさに生存の欲求のことを言い、それからマルクスの食わなきゃいけないって、まさに生存の欲求の胃袋の話をし、キリストのほうは上のほうの話をし、要は、その中のどれかを言ってるんじゃないかと。人間の捉え方はもっと複雑であり、一元的ではないはずだ、多面的にとらえなきゃいけないということで、実はそれからはその仮説に基づいていろいろ研究していったわけです。

6-2 なぜ問題が起こるの?

 その次の6?2に入ってきました。なるほど。じゃ、そういう人間観から見て、いまの問題点をどう考えたらいいんだろうかなと。いろんな問題が起こっているなと。ちょうど私が高校生のころ、米ソの冷戦が非常に盛んだったんですね。それがなぜ起こるのか。それから、資源の枯渇もいまのように言われていた。地球の砂漠化の問題も言われていた。環境の問題も言われていた。

 そういう諸々は一体どこから来るのかな、どうやったら解決つくのかなと。まさに私がさっき考えていた、父母の背中と日本と人類と、ここで起こってる課題というのは全部同じ構造の中から出てきてるんじゃないかなと。しかも、人間の幸福というのは、さっきマズローで言ったような、そういう幸福なんだろうと。そうとらえはじめた。それをずっと研究していくと、そのことを解説しているというか、まさに世の中が研究してることがわかってきたんですわ。

 そんなこんなを研究していると、実はパラダイムという言葉にぶつかったんですね。これはニュー・サイエンスといいまして、いままでの西洋の近代合理主義の考え方じゃなくて、古いやつはやめて、もっと新しい研究をしましょうということで、70年代初めぐらいから起こってきた。ベトナム戦争直後にそういう見直しの気運が起こってきたんです。

 幸せについて研究していたときにそのパラダイムという言葉にぶつかった。「そうか、そうなんだ」っていうんですけど、これは、結局、立場が変わると見方が変わるという世界でね。トーマス・クーンと言う人が1963年にこの言葉を言い出したんです。どういうことかというと、パラダイムというのは、例えば、京都政経塾の人たちが共通に持っているパラダイム。日本人が共通に持っているパラダイム。要は、その人たちの集団が、こう集団がいろいろありますね。我々人間はこういうところに乗っかっているわけですわ。

 例えば、日本というお盆の上に乗っかっていたり、アメリカというお盆の上に乗っかっていたり、あるいは1990年代というお盆に乗っかっていたり、いろんな場合があります。実はここで共通の価値基準、あるいは考え方のパターン、そういうものがあって、そういうことをパラダイムっていうふうに彼は定義づけていました。

 ところが、この人、とんでもないこと言ってるんです。このパラダイムという言葉を使って。つまり我々がいまぶつかっているいろいろな問題というのは、我々のパラダイムを変えない限り解決されないということを言い出した。どういうことかというと、16世紀以来、つまり、さっきの人類が一番どん底に落っこって、つまり、宗教を失って人間の力でやるんだといってルネッサッスが始まって、科学を発達させ、物質文明を発達させっていう、ここの中でずっと培ってきた物事の考え方、パターンというのを変えないかぎり、世の中のいま起こっているあらゆる現象が解決つかないんだということを言い出したんです。このことを見たときに、また私はガクンときたですな。まさにこれだと。

 ということで、これはどういうことなんだろうかなと思って研究をしました。これは西洋近代合理主義という考え方なんですが、つまり、ここで書いたのは、還元主義と分析主義と書いていますね。

 要するに、人間というものを考えたときに、人間というのは目があって、鼻があって、口があってとどんどん分解できるわけですよ。それで、あらゆる物事、事象っていうのは、どんどん分解していくといろんな要素から成り立つと。さらにどんどん、細かく分解していくことができるんだと。もう問題が起こったら、どこが悪いかを発見して、そこを置き換えれば、全部問題は解決するんだというふうに言い出したんです。

 どこに問題があるか、どんどん分析していけば、唯一絶対の答えが見つかるはずなんだと。つまり、機械が壊れますと、どこの部品が壊れているかというのがわかるから、そこの部品がどこかを探して、それを取り替えたら修理が完了すると。つまり、物事、世の中を全部機械だと思ったんですね。なぜかというと、ニュートンの力学が発明されて、それがものすごく大きなインパクトになった。彼はまさにこの機械論という考え方をベースに考えて、それでどんどん発展してきた。これがベースの考え方。

 これだとね、とんでもない問題がいろいろ起こっているわけです。臓器移植がいま問題になっていますね。人間を一種の機械だと見なす。じゃ、パワーと取り替えたらいいじゃないかと。もっとひどい言葉、人間の頭脳を別の人間に移植すればいいじゃないかと。ここで一番議論になるのは、宗教学会は「医者は命というものがわかってない。それは神から与えられたものだ」というんです。命という概念と対立しちゃったんです。命ってなんだっていったって、科学の世界じゃ、命っていうのを放り出したんですからね。宗教をやめたんですから。中世のキリスト教をぶっつぶしちゃったんですから。人間の力で全宇宙を構築するんだということをやってきたわけだから。神様はいないでしょう。生命なんて、このパラダイムの中では扱っちゃいけないんですよ。

 それで、これはイカンということになりまして出てきたのが、一般システム理論というものです。これは1956年にボールディングという人が言い出した話です。もともと一般システム理論というのは、ベルタランフィーという生物学者、環境関係の生物学者が言い出したことなんですが、それが発展してきまして、特に戦後、大きく発展してきたんですが、世の中をシステムとして見ようと。システムですから、インプット、アウトプットがあるとか、上位システム、中位システム、下位システムがあるとか、そういう見方です。

 しかし、レベルがあるんだと、システムには。例えば、最初原始的なのレベルの構造的、静的な部分。あるいは2番目、時計仕掛けになっている。あるいは、制御機構。我々がいつまでシステムと呼んでいたかは1番から3番までで、4番より上の部分、それの開いた部分とか生物とか人類とか組織とか神とか、そういう関連部分、ずっとこのレベルに関しては、システムという捉え方はしてこなかった。この見方もシステムという概念で捉えられるんじゃないかということを、この人は言い出しました。

 これは、私、インパクトありましたね、正直。簡単に書きますとどういうことかというと、よく子供が、地球ってどんな形をしているのって聞きますよね。昔は、コペルニクスか出てくる前は「地面は真っ直ぐなのよと。ずっと広がっているのよ」と。「ずっと行った、その先にはなにがあるの?」「その先には先があるのよ」とかって、わけのわからない議論をしていたわけですが、それが、地球は丸いということがわかりました。地球は丸いんですよ。ザックリひと言でいったら丸いんです。

 ところが、分析をします。そうすると、北極と南極を結んだ線と赤道回りの線とは、若干赤道回りのほうが長いんですね。つまり、菱形というか卵型というか、そんな形なんですね。ところが、もっと分析するとどうなりますかというと、エベレストみたいに高いところもあるし、マリアナ海峡みたいに深いところもあるし、要するに、地球は凸凹なんですよ。

 さあ、どの見方が正解でしょう。正解はありません。どの見方も正しいです。これは数学的にいうと近似値、誤差の世界という見方をします。つまり、大きなところから、こんな小っこいものだったら、もう誤差として勝負できる。ニア・イコール・ゼロだと。ところが、分析していきますと、そのことだけがどんどんクローズアップしていきますね。そうなると「木を見て森を見ず」になってくるんですね。重箱の隅だけ突ついて全体を見失う。そのもの自体がどんな機能をしているのか、どんな目的であるのか。意義とか目的がなくなってしまう。

 システム思考というのはどういうことかというと、まず、あらゆるシステム、つまり、我々人間は生まれたときに、存在そのものが意義、目的、価値を持っています。無味乾燥に生きて、ただ、自分の娯楽のために生きてウンコ製造機をやるというふうな奴は本来の人間じゃありません。しかも、それは人間本来の生まれた意味ということもあるし、個々人の皆さん、一人一人もやっぱり生きる意味というのがあるだろうと。ところが、日常「用はあっても養なし」で、あまりそのことを振り返ってないんで、意義を忘れてしまうんですね。

 2つ目。システムの機能と全体性ということです。分類していくんだけども、関係しているとか、全体から見るという視野が狭いんですね。だから、それぞれ相互に関係していることに気付かない。例えば、問題点としてよくお話するんですけど、我々は日ごろ家にいます。私なんか、京都じゃなくて大阪ですから、京都の下水を飲んでいるみたいなもんです。非常にまずいです、大阪の水は。生まれが名古屋でしたから、本当にその差を見ると情けなくなる。

 水道から水がジャーッと出てきますよね。こういうのがあって、私、ここにいます。コップで水を飲みます。まずい。通常、この世界だけを考えます、我々は。この問題解決をやるから浄水器が売れる。

 これ、本当の問題解決でしょうか。この世界だったら、確かにそうですよね。これ、どんどん、絵を広げてください。大阪の浄水場があります。この取水口があります。淀川から取ってきます。ズーッといきます。このへんに京都があります。近畿の水瓶、琵琶湖があります。大阪からすると、ここの生活汚水だとかなんとかっていうのがドーッと入ってきますよね。で、琵琶湖自体、いま汚くなっているわけでしょう。京都の人も迷惑を被っていますよね、これで。ただ、大阪ほどひどくない。大阪は全部、ここも、途中の連中がダーッと入ってきたやつがここに来ますからね。まさに京都の下水なんですよ。

 そうすると、この間も私申し上げたように、なぜ、なぜ、なぜって辿っていきなさいと。どんどん源流までいきますでしょう。実は琵琶湖の水をきれいにしなきゃいけない運動は、大阪の人間が真っ先にやらなきゃいけないですよね。もし皆さんの中で、琵琶湖の水、きれいにするっていう人がいたら、本当にリキ入れて応援しますよ。

 つまり、本当の問題解決って、ここをきれいにすることでしょう。ところが、一方で、みんな、生活排水をここにも流しているわけですよ、ジャージャーと。この人たちはまた同じことをやっているわけね。同じことがここで出てくるわけですよ。

 これ放っておいたら、どこまてでも悪くなりますね。浄水器じゃすまなくなるでしょうね、おそらく。そうすると、人間はまたなにを考えるかというと、もっとスーパー浄水器を出せばいいじゃないかと。まさに発想が西洋の近代合理主義でしょう。生命の大本から辿らないよね。これは全体を見てないし、因果関係を見てないでしょう。

 おそらく皆さんのテーマは全部これだと思うよ、ぼくは。見方を変えると。こういう見方しかしてない連中に、こういう絵を書いてあげなきゃいけないんですよね。

 同じ日本人でさ、中国にいて帰ってきた人たちの子供が、中国語しかしゃべれなくて大変だというのに、片方で国連の常任理事国になりますとかってバカなこと言ってるんだから。この絵がないわけでしょう。そんな、外向きにえらそうなこと言うんだったら、まず内輪のことやんなさいよと、私はそういう世界だと思うんですけどね。つまり、問題の設定の仕方が違うんですよ。この小さな世界で問題を設定すれば、確かにここの問題なんですね。ところが、大きな視点で見たら、全然違うところに問題があるし、このことが実は我々の命までも縮めてるんですよね。そのことがわかってない。どこまでこんなバカを繰り返すのと。そういう世界なんです。

6-3 歴史・文明の変わりかた

 トインビーっていう人が「歴史の研究」という本を書いています。実はこの人の前にシュペングラーという人が「西洋の没落」という本を書いていて、そのことは、まさにいまのパラダイムを転換しないかぎり没楽する。つまり、もともというと、文明というのは必ずこう成長すると没落するんだというのを、世界中のいろんな文明を研究してそのことがわかった。ということは、西洋も没落するんだとシュペングラーという人は言い出した。同じ研究テーマでトインビーも研究を始めた。

 ところが、トインビーは、なんとかそれが阻止できないかなと、処方箋を描くために考え出したんです、同じテーマで。ものすごく長い本ですよ。

 だから、ここでぼくが最初、高校時代に持っていた問題意識がまさに歴史の中でガツンとやられたと。要は、ぼくが持っていた問題意識「みんな同じことを思ってたんだなぁ、あのときは。これはなんとかせなイカンな」と。ぼくのほうは親孝行から来ていますからね。なんとか親孝行するためには、結局同じことをやるんだなと。

 その次にインパクトがあったのはトフラーの「第三の波」です。これはどういうことかというと、技術革新というのがどんどん新しい、資源を拡大していくという。最初は農耕の時代があって、やがてそれが機械化の工業化社会というものをつくり、いまは情報化社会というのが大きくやっている。要するに、それぞれの時代ごとに全部テクノロジーが変わって、それが生活を変えている。

 実は、私はたまたま理科系を専攻していましたから、「テクノロジーの進化」という講義があって、その講義で同じ議論を別の角度から聞いたんですよ。結局ね、「テクノロジーの進化」というのは理工科系ではどう捉えているかというと、人間の機能を順番に機械化していったというふうに捉えるんですよ。

 まず最初は、運ぶとか重いものを持つとか、食糧を採るヤジリとか、そういうことから道具が発展して、つまり、手の代わりね。それが移動する機械とか足の代わりをしたりとか、あるいは今度は目の代わりでカメラとかテレビとかが出てきて、耳の代わりでテープレコーダーが出てきたりとか、そういう人間の機能代替をすることによって人間が楽になる。そういうことをどんどん追求してきたのがテクノロジーの進化の歴史なんです。テクノロジーが進化すると、その都度、どんどんといろいろ新しい資源の開発ができる。ということは楽になっていく。

 農業革命、工業革命、情報化革命がきて、これが実はさっきのマズローの5段階説と一緒やないかと。それぞれの下のレベルのやつを順番にテクノロジーで開発をしていったんだなと。次の上のレベル、次の上のレベルって変わってきたんだなと。それで次はなにを考えたかというと、情報化革命のあとはなんなんだと私は考えたんですよ。

 テクノロジーの起源というのは、農業化革命でやったテクノロジーの要素が次の工業化革命の要素になるわけね。工業化革命のときの機械の要素が固まって、人間の頭脳の機能代替をしだした。これがコンピュータなんですよ。コンピュータ同士でお話ができないか。人間の脳でお話するように。これがコンピュータのネットワークの世界なんです。

 そういうことで、次の世界、次の革命はなにかなと思ったときに、まさに人間の脳そのものの代わりをするコンピュータを契機にして変わるということは、人間の意識が変わる世界になるんだろうと。それは、さっきのマズローの言った5段階説の上の時代、つまり、自己実現だとか他者実現の、そのテクノロジーになるんだろうと。そのインパクトになるんだろうと考えたんです。

 実は、ここまで考えて政経塾に入りました。その話を私は最初の1回目、入塾動機発表会というのがあって、なんで政経塾に入ったのかっていうのがあったんですが、みんなに話しました。そのとき、なにを言われたか。「お前はバカか」「なにを考えてるんだお前は」と言われた。そのときに「坊さんでもやるか、経営コンサルタントでもやれ」と言われました。その結果、経営コンサルタントをやっています(笑)。

 そのときにね、本当に感謝しているのは、ある先輩がいて、その動機発表会のときに、途中で、ぼくが滔々としゃべってるんで「お前、いつまで話すつもりだ。おれは聞きたくねえ。やめろ」って言われたんですよ。「お前はな、基本的に素直な心がねえんだよ」って言われたんです。いま考えてみたら、そのときは「おれが、おれが」でしゃべってたんですよ。

 「相手になんとか理解してもらおう、相手のお役に立とう、相手が困っていることを助けてあげよう、自分の成長のためにつなげようっ」なんて思いはなかったね、やっぱり。理屈だけでしゃべっていた。腹に落ちてなくて、わかりやすくしゃべれなかった。そのことを指摘して、その先輩がいわれたのでしょう。そりゃね、私も政経塾に選ばれ、やっぱり、それだけのプライドと意地があるでしょう。ガツーンときましたよ。

 そのあとまた別の先輩から言われたことは「宇佐美君ね、君、あまり力んで考えてもダメだよ」と(笑)。力んで考えなくても、ぼくたちがいなくたって、二十一世紀は来るんだから。塾生は、えてして「右の肩に世界の平和、左の肩に人類の幸福」これをたたみかけて、こんなに力んで、歩いているけど、そんなことしたって、世の中変わらないんだよと。そんなこと気にしなくたっていいよといわれてね、まあ、肩の力が抜けましたよ(笑)。

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