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松下幸之助経営の秘密 社会改革者としての松下幸之助 前編

 事務局 小野晋也さん、それから横尾俊彦さんと、どちらかというと政治畑の方が、二人続いたんですけれども、宇佐美くんの本職は「経営コンサルタント」という、経営の専門家であります。

 一九六二年、名古屋生まれで、早稲田大学の理工学部を卒業して、松下政経塾の第7期生として、入塾をしました。現在、政経塾には「政経ネット」という、パソコン通信のネットワークがあるんですけれども、それを立ち上げたのが彼であります。卒業後(卒塾後?)は経営コンサルタントとして、松下電器の、特に大企業病に入ってる― どっかのJRと一緒でありまして― いろんな経理のシステムとか、多くの壁を崩していくというプロジェクトを手掛けていました。題して、「ゴーストバスターズ」というプロジェクトだったんですけれども。そのあと、経営コンサルタントとして独立をして現在も自分の会社を経営しています。

 今日は「松下幸之助、経営の秘密― 社会改革者としての松下幸之助」ということで、松下塾主について、初めて系統的に語って戴こうというふうに思っています。それでは宇佐美くん、お願いします。

 宇佐美 どうも宜しくお願いします(拍手)。長時間ですんで、ひとつ、座ってやらせて戴きます。ちょっとこれ、皆さん、レジュメを用意して参りましたので、お配り戴きたいと……ちょっと回して貰えますか? すいません。

 ただいまご紹介戴きました宇佐美です。日頃は2期生の方は、過去、二度ほど、こうした形で講義をさせて戴いてます。今日は入塾されて早々ということで、3期生の方、皆さんお見えになると思うんで、ちょっと顔と名前が一致しませんので、戴いた名簿に沿って若干、挨拶というか……。石原さん、お見えになりますか? はい。中央監査法人というのは、あれは公認会計士か何かですか。岩田さん。はい、一番年長でらっしゃるんですね(笑) 。まあ、私とそう大して変わりませんが。それから江口さん。はい、PHPの社長(?)も江口さんなんですけども。それから奥田さん。どうも。翻訳をされてるんですか。なるほど。川端さん。学生さん、経営学部、じゃあ今日の話は一番うってつけのような感じですね。あとで分からない人、解釈を訊いてください。その次、北尾さん。これはどんなお仕事なんですか?(メモラーブルエンセル)

 北尾 洋服のデザイナーの秘書をしているんです。

 宇佐美 なるほど。ちょっと横文字で、よく訳が分からん会社名で。それから栗山さんとお読みして宜しいんですか? 中学校の先生。あ、そうですか。それから島本さん、先ほどの。次回までに練習をするようにいわれて(笑) 。正直、私も、いま聞いてまして、入塾した端(はな)を思い出しましたね。私も何回かとちりまして。声がでかいでしょう。それでやっぱり入塾した端(はな)で、間違って覚えてるんですね。で、大声で喋りまして、皆から「お前、何を間違ってんだ」って、後ろを振り向かれたりしましたけれども。ま、そのうち慣れてくると思います。それから西田さん。元気なお声で。先ほど、松井さんがお聞きしました、京都の市役所のほうで、発言をすると、何か全部、京都を代表したような発言になってしまうという(笑) ……この塾は、それで結構ですから。

 昔、入塾したての頃、幸之助さんが塾へ来られて、いつも、「きみら掃除してるか?」と言われるんですよ。その時に、どう言われたかというと、「きみたちな、塾生という立場できみらはいるけど、その一方で塾長という意識を持ってくれよ。そうすると、落ちとるゴミ一つ一つ見ても、これが自分のことと考えられるやろう」というようなことを言われましてね。今日もあとからゆっくり、その話をしますけれども。ですから、京都の市民の代表ということで、そういう意識というのは、非常にすばらしいですから、いろいろ冷やかす人もいますが、決して悪いことじゃございませんから、頑張ってください。それから水野さん。京大の学生さん。一番最年少……

 事務局 彼は名古屋の出身。

 宇佐美 そうですか。ほう……名古屋のどちらですか?

 水野 名古屋の(声が小さくDI不能)

 宇佐美 あ、私は西区です。またローカルな話、あとでゆっくりと。えーと、それからこれは何とお読みするんですか、ゆみ……

 弓削 ゆげ。

 宇佐美 ほう……珍しいお名前ですね、京都のほうは多いんですか?

 弓削 (声が小さくDI不能)引っ越したんで。

 宇佐美 そうですか、ほう……。これも区役所にお勤め。そうですか。2期生も役員の方、キタムラさんでしたね、お見えになりましたけど。それから吉川さん、奥様。「主婦」と書いてありますが。これからは女性の時代だということで、私の同期の山井くんといって、高齢化のプロジェクトを研究してまして……あそうですか、じゃ、ご存じですね。この間、たまたまファックスを送ってくれまして。どんなファックスかというと、本屋さんのベストセラーのリストを送ってくれましてね。なんと五位にいるんですよ。ちょうど岩波新書から、「(体験ルポ) 日本の高齢者福祉」という本を書いているんですが、なんとその彼の上の四位がシドニー・シェルダンで、六位が……あれはだれだったかな、何とかという有名なあれですわ、日本の作家で。「お前、そんなに有名になったのか?」「いやぁ、そのはずはないんだがな」って。本人自身もなぜ売れてるか、よく分かってないということで「自覚のないベストセラー作家」ということなんですがね。彼が、実は京都の嵐山の下の桂ってありますでしょう、あそこの出身で、実はらくなん(洛南?)高校を出まして、ご承知の方もおみえになると思いますが、あそこは真言宗ですかね……確かそんな感じですね。当時の■■にありましたね。ですからスパルタ教育なんですよ。塾に入った時も全然笑いませんで、ぶすっとした顔で、「俺はな、絶対に笑わんのや」とかって言ってたんですよ。その人間がどうでしょう、二年間ぐらい、高齢化福祉の研究でスウェーデンに行ってまして、帰ってきて何を言ったか。ニヤニヤとした顔になりまして、にやけた顔になって、「宇佐美な、これからはな、女性の時代や」、コロッと態度が変わるんですね。「なんでやねん?」「いや、これからは男がしゃしゃりでる時代と違う。女性がやっぱり前に出ないと、この高齢化福祉というのは乗り切れないんや」というような、そんなことを言うわけですよ。いろいろやっぱり研究していくと、どうも女性の時代なような気がしますね。特にスウェーデンなんかでも、昔、三十年ぐらい前というのは、男性がほとんど代議士とか市会議員とかやってたんですが、いまは四割から半分近くが、もう女性の方がやってみえて。やっぱりこれからそういうことになっていかないと、福祉とか教育とか、進んでいかないなというふうに思いますんで、ぜひいい機会なんで、奥さんの声をずいぶん反映させて戴きたいと思います。一応、自己……

 宮川 すいません、僕も呼んで戴ければ……(笑)

 宇佐美 ごめんなさい。

 宮川 下から三番目なんです。

 宇佐美 すいません、意図的に、意図的に抜いたわけじゃございませんので、宮川さんですね。はい。大阪大学の工学部の学生さん。失礼致しました。大助という名前ではないんですね(笑) 。失礼致しました。

 宇佐美 そうしましたら、今日のテーマは、実は「松下幸之助、経営の秘密」ということで、皆さんにお配りしたこのレジュメ、これに沿ってお話をさしあげたいと思います。いってますかね? いってますか? はい。

 このお話をする前に、先ほどもちょっと自己紹介というか、若干しましたけれども、もう少し詳しく、私自身がなぜこういう話をするようになったのかというか、その辺のお話をしたいと思います。2期生の方は、以前お話をしておりますので、ダブるかもしれませんけれども、一年生の方がおみえになるんで。

 まず私は、生まれた家が、ある会社の経営をしておりました。それでいろんな事情がありまして、その会社が倒産をして、会社の経営というのは大変なことだなということで、その倒産の経験を通じながら、「経営」というものが、どれだけ重要なものなのかというのを、自分の肌でというか、経験で感じておりました。

 倒産をするというのは、皆さん、感覚的に分からないかもしれませんけども、極端な話明日から食べる米がなくなるとか、あるいは昨日まで付き合ってた人から、掌を返したように、付き合って貰えなくなるとか。当時、私がちょうど小学校あがった端(はな)ぐらいの時で、昨日まで遊んでいた友達の家に、遊びに行ったんですね、「何々ちゃん、遊ぼう」とかって、昔はよく玄関端でやったもんなんですが。

 三時ぐらいでしたかね、行きますと、普通、まだ夕方ではないんで、それまで毎日遊んでいた時間なんですが、お母さんが出て参りまして、「もう、うちの子は今日から遊べないのよ」と言うんですね。私はその時、何のことやら、よく分からなかったんですが、後々、聞いてみると、そういう会社の倒産だというようなことが、あとからはっきり分かったんですね。

 業種はといいますと、お菓子、飴屋をやっておりまして。ちょうど戦後、非常に食料難の時代でしたから、甘い物というのは非常に高価な物でした。砂糖も買えない時代でしたから。ちょうど、布団の綿をちぎってきまして、そこに砂糖の水をしみ込ませて、それを紙で巻きまして、煙草のような感じで巻いて、それをしゃぶるというような、そんなような商品を、戦後直後、作ってまして、べらぼうに大儲けを致しました。

 名古屋の中心街にメイドウチョウ(名豊町?)という所があって― ご存じだと思いますが― あそこに、全国のお菓子屋街が、全部、問屋さんが集まってる所なんですね。そこに店を張ってまして、製造・販売、両方手掛けるということで、田舎のほうに新しく工場を建てて。従業員でいくと、二百人か三百人ぐらいの従業員の所であったんですが。町中が、もううちの従業員という感じでした。

 ところが、そういう倒産をするというような経験があって、ある意味で、天国から地獄に落ちるような経験を致しました。正直、私自身申して、そういう会社の経営とかいうのは、あまり好きではないというか、正直、「やりたくないな」という、本音の部分ではそういうところがありました。

 これは前回、お話ししませんでしたが、小学校六年生の時の卒業論文ですね……卒業論文というのか、文集みたいなのを作ったんです、小学校でしたから。そこでよく「将来の夢は」というのがありますよね、例えば「パイロットになりたい」とか、「プロ野球選手になりたい」とか、小学校六年生ですから、男の子だったらだいたいそういうようなものを、希望するんでしょうけれども。私の場合、そこに何と書いたかというと、「将来は平凡なサラリーマンになりたい」と書いたんですね。これはマジに書いたんですよ。 

 何でかというと、結局、会社が倒産した、あるいは家が安定していない。親父はそのあと、建築屋に商売替えを致しまして、小さな会社を転々としまして、行った先が倒産するとか、会社がおかしくなって、また次の所に替わる。八回ぐらい替わりましたかね、会社を。そんなようなことがありました。ですからその時に、そういうふうに書いたんだと思います。

 そういう経験が原体験にあって、「会社の経営」とかいうものについては、非常に自分なりに重い意義(思い、意義? 重い異議?)があったということなんです。

 高校に入って、当然― 進学校でもあったんですが― 大学にそろそろ、「どんな所を受けようか」という時期になりました。だいたい高校一年生から二年生ぐらいに掛けて。私自身、ちょうどその頃、コンピュータが出始めた時期でもありまして、「コンピュータというのは、これから非常に伸びるだろう」というようなことを、考えてたんですね。ちょうど実家が名古屋ということもあって、織田信長が名古屋の出身ですね。彼が長篠の戦いで、鉄砲隊を使って、武田の騎馬隊をやっつけたという― 皆さんご承知だと思いますが― コンピュータというのは、これから「武田の騎馬隊の鉄砲」と同じになるんじゃないかなと、実は高校二年生ぐらいの時ですかね、そう考えたんですよ。

 で、あの長篠の戦いというのは、皆さん、ご承知かどうか分かりませんが、ただ当時の火縄銃というのは、一回撃つと、その次の弾丸を込めるのに時間が掛かるんですね。弾を込めて、筒を掃除して、もう一回込めて、また火を点けるのに、リードタイムというか、途中のインターバルの間隔が二分とか三分とかありましたから、ですから一発撃ってそれが当たらなかったら、向こうから来てしまうと。それを織田信長は何を考えたかというと、隊を三段構成にしまして、鉄砲隊というのをつくって、一発撃つと、その撃った人が後ろに回って、次の弾を込めた人が前に行くという……。ですからちょうど、いわゆる鉄砲隊が機関銃のような役割をしたわけですね。

 しかもあの戦いというのは、武田の騎馬隊というのはご承知のように、ものすごくトレーニングをされてましたから、そう簡単にやっつけられるわけがない。だいたいどう足掻いたって、鉄砲隊があることを分かっていて、そこの前に突っ込んでいくような、普通、常識的なことはやりませんわね、非常識なことは。

 それで織田信長は何をやったかというと、後ろのほうから、ずーっと迂回作戦でもって武田の騎馬隊をどんどんどんどん追い込んで、鉄砲隊の前にどうしても行かざるをえないような戦法をとったんですね。それでどんどんどんどん、武田の騎馬隊が柵の所に、鉄砲隊がいるにもかかわらず、そこに追い込まれて突進していくというような戦法をとった、戦術をとった。

 私、その時に、特に親父から言われていたのが、会社が飴をやってて倒産しましたから親父がよく言うのは、「時代の先を読め」と、「時代の潮流を捉えないと、絶対にうまくいかないぞ」という話を、よくしてくれたんです。そのこともあって、「これからの時代はコンピュータだな」ということを、自分なりに感じました。

 ところがコンピュータを普通考えた時に、コンピュータを作るほうを、思わず考えるんですね。ところが当時の鉄砲鍛冶屋さん、つまりコンピュータを作る人たちというのは、その後どうなったのかなと考えてみると、鉄砲鍛冶に終わってるんじゃないか。確かにたくさん生産して、拡げることは拡げるけれども、それで終わってるんではないかなと、一つ、考えたわけですね。

 それから次に、「鉄砲をどうやって使うか」という、いわゆる鉄砲隊の隊長みたいな、そういう役割を考えてみました。それはそれなりに非常に重要な職務であるな。ところがそれも結局、鉄砲隊の隊長で終わってしまうんではないだろうか。むしろ織田信長をめざしたらどうだろうか。つまり、「鉄砲」という新しい武器を使いながら、なおかつ「鉄砲隊」というようなことをアイデアとして生んで、しかも戦争自体、戦術自体を、鉄砲を生きた形で使えるという、そういうことを考えまして……。

 実はいろいろ調べていくと― ご承知の方もおみえになるかもしれませんが― 経営工学という学科があるんですね。そこで私が入りました、早稲田の経営工学の学科の案内状というのを見ると、「理科系の社長の器を持った人間を養成するんだ」と。「人間の心も分かる、あるいはテクノロジーも分かる、そういう社長を育成する、あるいは経営者を育成するんだ」というふうに書いてありまして、それを読んだ時に、まさにこれだなという感じが致しました。ですから大学の専攻も、まさに「経営」という観点で選んだわけですね。  

 なぜ、その倒産を経験をした人間が、またそんな経営に足を踏み込んだのかな……。正直いいまして、「好き」だったんでしょうね。これは非常に矛盾する話だと思うんですが本人は潜在意識の中に、やっぱり嫌な体験があるにもかかわらず、「好きだ」という部分も反面あるんですね。それで大学も、また専攻がそういう経験をしたわけです。

 今度は大学の卒業論文を書こうという時期になりました。それで、あとから詳しくご紹介しますが、当時、「政経塾に入りたい」という心を決めておりましたので、であれば、何を研究しようか、それに合わせたことを研究しようということで、実は大学の研究室をリーダーシップを研究する、そういう研究室、特に労務管理をやっている研究室、そこを選んで入ったわけです。

 その卒業論文に取りかかって、実はその時に非常に燃えました。テーマとしては、リーダーシップのあり方と同時に、トップマネジャー、つまり社長はどうすべきなのか。その当時、非常に環境が激変してた。消費者ニーズが多様化してたり、あるいは技術革新が激しいという時代になってきましたんで、そういう中で、経営者― 社長― はどうすべきかというような、そういうテーマを選びまして……。

 当時、学生だったんですが、理科系の学科であるということもあって、タヘンリョウ(多変量?)解析という、統計解析の手法に入れ込むというのが、卒業の条件だったんですね。それでいろいろ理論的な構築もしたんですが― 難しいことは、ここでは触れませんけれども― アンケートをとって、それでアンケートをもとにして、コンピュータのそこにタヘンリョウ解析を掛けるということを、やったわけです。

 社長ですから、当然、「インタビューをしよう」ということになりました。タヘンリョウ解析というのは、ある程度のサンプル数、つまり標本がないと、統計として意味をなさないということで、当時、「五十以上、サンプルを集めなさい」という最低条件がありました。 

 実はその時に、一学生の分際でありながら、「従業員が百人以上の会社の社長さんを、五十人以上回ろう」ということを考えまして、非常に大変いろいろ苦労をしたんですが、ちょうど当時、タモリの「笑っていいとも」で、最初、テレホンショッキングってありますよね、「友達の友達」という。あの戦法を使って、お会いした社長さんに、「他の社長さんを紹介してください」というような、そういう戦法を使いまして、二ヵ月ほど掛けまして、だいたい五十人ぐらい回らせて戴いたというようなことで。

 実はその途中、ものすごく苦労しました。一介の学生でしたから、そんな社長さんに会ったこともないですし、直接知り合いでもありませんでしたから、まずその紹介して戴く方を探さなきゃいけない。それから期間が限定されてましたから、とにかく黙ってると、どんどんどんどん、期限が来るというようなことだったんですね。

 それで、自分自身も、これ、途中で投げ出してしまおうかなと思ったことも、何度もあったんですが、その時もやっぱり自分で思ったんですね、「過去の倒産した経験とか、経営についての嫌な思い出、これを何とかこの卒論をクリアすることによって、清算できないだろうか」って、やってる時に思ったんですね。それで、いわゆる、先ほど島本さんが「私利私欲なしに」っていう言葉を、ちょうど言われてましたけど、まさに私利私欲なしに、「これをやって、だれかから褒めて貰おう」とかということではなくて、まさに自分の中の心に区切りをつけたいという意味で、その卒論に燃えて取り組んだわけです。

 幸か不幸か、最終的にそれがまとまりまして……また知らないうちに、「経営」の中に足をどっぷり踏み込んでるんですね。で、今度入った塾が「松下政経塾」、わが師匠というのが「松下幸之助」、つまり「経営の神様」であると。

 当初、私はここにちょっと皆さん、レジュメをご覧戴きたいと思うんですが。1ページ目に、その辺のところをちょっと触れております。この「序章」という所なんですが。いまお話ししているのが、この「松下幸之助と私」という所の一番の所ですね。わが人生と経営との因縁というのを、ちょっとお話ししております。

 まさに松下政経塾に入ろうというきっかけ、あるいは入ってからの自分の行動というものも、まさにここに書いてあるように、何でか知りませんけれども、経営と大きく因縁をもって、どんどんどんどん深みにはまるというようなことを、意識的にか無意識にか、辿ってきました。

 元々、松下政経塾ができたというのを知ったのは、ちょうど1期生ですね、皆さんお聞きになった、横尾さんとか、それから小野さんとかが入られたのが、1期生です。私が7期生ですから、それから六年経った時ですね、後輩であります。ちょうど華々しく、マスコミで騒がれまして。当時は松下幸之助さんという方が、八十五歳でお創りになったんですが、まだ非常にお元気な時で、「二十一世紀の未来のリーダーをつくろう」ということで、茅ヶ崎にお創りになったわけです。その辺のところは、甲斐さんからお聞きになったり、あるいは本でお読みになったろうと思うんですが。

 私も最初、まだ当時、高校の二年生ぐらいの時でした。ちょうど先ほどお話しした、大学をどういう専攻をするかということを、考えているような時でしたね。その時に、ニュースで聞きまして。当初、あまり私自身も知らなかったんですよ。新聞で騒がれた時は、「どうせ松下電器の幹部社員を、育成するような所ではないんだろうか」、あるいは「政治家といっても、既に親が政治家で、すぐにでも政治家になれるような、そういう人たちを養成する所なんだろう」と、まだ高校生だということもあって、そのぐらいの理解でいたわけですね。

 ところが入りまして、大学に入って、ちょうどたまたま大学一年の秋口に、学生館に行ったんです、大学の。普通、学生館というのは、就職とか何とか扱うような所なんですがたまたま何かのきっかけで、書類を貰いに行った時に、ちょうどこのカウンターの横に、ドンと、政経塾のパンフレット、「入塾案内」というのが山積みにされてまして、ちょうど4期生の方が入られた時ぐらいでしたかね。いろんな方が体験談とか、塾はどんなとこだとかいうことを、お話になってるんです。

 私、それを見て、「へぇ、松下政経塾というのは、ニュースで聞いていたのと違って、意外にまともなことをやろうとしているんだな」と、いま思うと非常に不謹慎な言い方ですが、いわゆる学校の名誉であるとか、あるいはすぐにでも政治家を何人出すということではなくて、非常に純粋に、「世の中を何とかしたいな」と思ってるんだな、そういう所なんだな、その時にそういうふうに思ったわけですね。

 実はそこを捲ってて、間に、一枚、白い紙が入ってました。これは何かというと、「申込みをされる方は、この白い紙に書いてある項目を、全部埋めてくれ」と書いてあるわけです。表には住所、氏名から入って、学歴とか、志望する会社名だとか、いろいろ書くような、一般的なところを書くような所があった。その裏返して見た時に、何を書くかというと、「『私が歩んできた道』というのを書きなさい」と。ちょうどA4のサイズ一枚ですね、線が引いてあるわけです。

 当時、大学一年生で入って、半年するかしないかぐらいでしたから、それを見た時に、愕然としましたね、正直。「『私が歩んできた道』を書け」つっても、振り返ったこともないですし、いま書けつっても、よう書かんなと。ここに、皆さん、一年生の方はそういうことをされたんですかね? そういう試験があったのかどうか、ちょっと分かりませんが、非常に高い倍率で入ってこられたということを、聞いておりますから、私なんかよりも、非常に優秀なんじゃないかなと思いますが。

 そういうことを、小論文を書けということで、実はこの時から、松下政経塾を受ける受けないはべつにしても、私はこの「歩んできた道」、「私が歩んできた道」を書けるようにしようということを、一つの、ある意味での目標になりました。それでそれ以来、「松下幸之助」という人を、ある意味でかなり意識するようになってきました。

 それで早稲田というのは― ご承知かもしれませんが― 非常に長い古本屋街がありまして、高田馬場から早稲田の校舎まで行く途中に、ずっと古本屋街があるんですが。たまたまそこを歩いておりました時に、松下幸之助さんの書かれたある一冊の本が、古本屋で売っているわけです。それも中のほうじゃなくて、一番外の一番安売りしている所のコーナーに、棚かなんかに置いてありまして。

 そこで手に取って見た本が、「人間を考える」という本だったんです。読まれた方、ちょっと手を挙げて貰えますか? 読まれたことないですか?……そうですか。ぜひ一読をお勧め致します。その話もあとからゆっくり触れます。

 実は私自身、その時、2期生の方はもう既に前回、講義でお話をしております。非常に「人間とは何か」ということを、実はちょうど考えている時でした。なおかつ、西洋の考え方、あるいは東洋の考え方、いろんな考え方があるけれども、それを融合して考えたらどないなるんだろうかというようなことで、自分なりに研究を進めていた時だったんですね。

 ちょうど昔ながらの旧い考え方ではなくて、新しい考え方に大きく変わろうと、「ニュー・サイエンス」という言葉、聞かれたかもしれませんが、新しく心理学なんかも変わってきてる。あるいは物理学なんかも、大きく変わってきているというような、ちょうど七〇年代の前半ぐらいですか、そういう新しい学問の大きな流れ、あるいは文明の大きな流れの中で、私はその本を、たまたま手に取った。

 私自身は大学の時に、いろいろそういう勉強をしてましたから、その本を取って、ペラペラと捲ってみたんですよ。そうすると、書いてある言葉というのは、非常に平易な言葉を書いてある。分かりやすいんです。ところがその内容をじっくり読んでみると、実は最先端の学者が言ってる内容と、全く同じか、それ以上進んだことが、その本の中には書かれてるんだなということを、私自身、感じたわけです。

 どういうことかというと― これはあとでゆっくり、その「人間を考える」を読んで戴けたらいいと思いますが― 「人間は万物の王者である」と、主張はそういうことなんです。「万物の王者」というと、非常に語弊があるような感じがしますが、どういうことかというと、人間というのは、この地上の中に生まれてきて、いろいろ動物とか植物とか、いろいろいるけれども、その一番上に君臨をするんだと。君臨をするということは、どういうことかというと、その良さとか可能性を引き出して、活かして使うことができると。しかもそれを組み合わせて、まさに「経営」をしながら、より良いものを生み出すことができる、そういう力を持っているのが、人間というものなんだと。

 とかく人間というのは、例えば機械の文明の前に、非常に情けない存在と思われたり、あるいは組織の前には、大した可能性を持ってないと思われてたりするけれども、「いやそうじゃないんだ、人間はすばらしい。本来、そういう可能性を持ったものなんである。つまり人間は万物の王者なんだ」と。

 「ところが」というんですね、これはちょっとお回しします。政経塾の「(松下政経塾塾長)講話録」の中に出てますね。ページを言っておきますので、ちょっと控えてください、一一九ページですね。皆さん、お持ちですね、ある方は。ここに書いてあります。

 そこで、「人間は王者ではあるんだけれども、しかし現実の人間を振り返ってみると、王者の如く振る舞いをしていない」と言われるわけです。例えば、当時ですと、世界中で飢えとか貧困があったり、あるいは戦争をしていたり、それも民族と民族が、お互いに自分のことを主張して引かない、その中で戦争をしてたり、あるいは宗教戦争というものがあったり……。本当は人間というのは、そんな愚かな戦争をしたり、あるいはその結果、飢えを招くような存在ではないんだ。むしろ、もっと平和な、もっと幸せな生活をつくりだせる、そういう可能性を持ってるんだ。

 「じゃあ、なぜ、そういう愚かな状況を招いているのか」と、幸之助さんは続くわけですね、「なぜなのか」。それは、人間というものが、自分自身のそういう持って生まれた本質、あるいは可能性、すばらしさというものを、自覚していないからだ。まず人間は自分自身、そのすばらしさを自覚することから始めなきゃいけない。そして、自分の愚かな知恵とか才覚に囚われすぎてる。

 とかくわれわれ人間、特に日本人もそうなんですが、私たちの教育というようなものを考えてみても、そうですね。いままで点数主義だ、あるいは、やれ受験戦争だということで、「だれだれちゃんよりも、何点余分に取ったよ」と、これは自慢になりました。その間でやっていることというのは、ただただ知識を吸収して、記憶力でもってテストのペーパーを書いて、「だれだれより点数がいい」、「偏差値はどうだった」、「どこそこの大学に入ったんだ」と、とかくエリートといわれる人ほど、そういうとこがありますね。

 世の中というのは、競争なんだ、弱肉強食なんだ。弱肉強食で、相手のことを踏みつけにしてでも、自分自身が豊かにならなきゃいけない。そうしなければ、相手から踏みつけられるんだ。だから自分のことを守る必要がある。そのために、いろんなことを攻撃したりするかもしれないけど、それは止むを得ないことなんだというような考え方が、われわれの心のベースにあろうかと思いますね。

 ところが真っ正面から、幸之助さん― 幸之助さんという言葉を遣わせて貰います、失礼にあたるかもしれませんが、一応、親しみを込めて言いますが― 幸之助さんは、どう言われたかというと、「そうじゃないんだ。人間はそんなにちっぽけなものじゃない。自分自身が素直な心になれば― これから私の講義の中に、この『素直な心』というのは、何度も出てきます― 人間が素直な心になれば、自分の知恵とか才覚とか、『俺が偉いんだ』とか、そんなことに囚われずに、皆の力とか知恵を集めることによって、全体がより豊かになる、より平和になるんだ」、そういうことを書いてあるわけです。

 実はこの本の裏側に、いろいろと、「新しい人間観の提唱」ということを、最初のここに書いてありまして、その解説文が書いてあるわけですね。そのあとに、書いた時の苦労話というか、述懐をされているわけですが、どういうふうに……。

 私はこれを書く時に練りに練った、「この本ができたら、わしゃ、死んでもかまわん」というぐらいの気持ちで書かれました、ちょうど七十七ぐらい、七十四、五ぐらいだったと思います、お書きになったのが。それを練りに練って、文章も毎日毎日、校正に校正を重ねて、で、それを世に出そうと。

 ところが、ここの中に「万物の王者」とか、そういう非常にある意味で語弊を招くというか、誤解を招きやすい言葉を遣っているし、しかも自分自身は小学校も中退でしか出てない。確かに経験はしてきたし、事業にも成功してきたけれども、本当にこの言っていることが正しいのか、あるいは受入れられることなのか……ということで、いろんな人に持って回って、それでご意見を訊かれてるんですね。

 ある人に相談されると、「松下さんな、これはな……宗教界からボロクソ叩かれるで。こんな『人間は王者なんだ』つったら、宗教界というのは基本的に神様というものが絶対やから、これは非常に危ない文章やから、これは躊躇したほうがええんちゃうか」ということを、言われた人もいたけれども、一応、その文章を持って回って……。

 ところが危惧したほど、宗教界から叩かれるということはなかった。むしろいろんな宗教団体が、そのことを逆に引用して、「松下さんも、こういうことを言われているんだ」というふうに、実はいわれたわけです。

 実はこの話を、延々長くしておりますけれども、「松下幸之助という人はどんな人なのか」ということを知ろうとした時に、いろんな側面があります。あとから申し上げますが実業家の側面もあるでしょうし、思想家の側面もあるでしょうし、あるいは政経塾を創ったり、いろんな本を書いて、社会改革家というような視点もあります。しかし、全部原点に流れている、その根本的な考え方というのは、まさにこの「人間観」、ここから来ているわけですね。しかもここの一冊に、僕は、集約されているんではないかなという気が致します。

 私は先ほど来、「松下幸之助」という人との関係、あるいは自分の「経営」としての因縁というのを、ずっとお話しさせて戴いたんですが。一言で、「経営の原点は何か」というと、まさにこの松下幸之助さんの人間観という部分に、集約されるんじゃないかな。

 島本さん、先ほど、「塾是」、「塾訓」、「五誓」というのを読まれまして、途中、とちられましたけども、その中に、「真に国家と国民を愛し 新しい人間観に基づく 政治・経営の理念を探究し」というのが出てきましたね。その「新しい人間観」というのは、まさにそのことなんです。

 「新しい人間観に基づく、政治・経営の理念を探究してくれ。いまの政治・経営の理念は、私が言っている新しい人間観に基づいてないんや」と、逆に言ってるのかもしれません。だから禅の公案みたいなもんで、禅の公案というのは、いろいろと宿題を出されて、それを一生懸命、坐禅をしながら考えるんですが。分かったような分からんような、そういうクイズみたいなものが出されます。それと似たようなもんで、まさにこのことを解くのが、われわれ塾生の一人一人に課せられた役割なんちゃうかなと。

 ですから私自身も、松下政経塾、二年間おりましたけれども、その中で何を勉強し、いま思うと何が一番糧になったのかといいますと、いろいろ研修をしましたけれども、まさに先ほど、島本さんに読み上げて貰った、「塾是」「塾訓」「五誓」、この中に全部凝縮されてて、なおかつ、毎日毎日が自分自身、努力することによって、その意味が日々新たというか、だんだんだんだん深くなってくるんですね。

 特にいろんな仕事をしてますと、私の仕事というのは、先ほど申し上げたように、経営改革やってるというか、いろんな改革を手掛けてますから、改革をやる度に、壁にぶちあたります。いろんなことを、こちらで信念を持って、「あの人を説得したい」。しかし壁にあたる。なかなか納得してくれない。手を替え品を替え、やっているんだけれども、なかなか分かってくれない……そういうことに出くわすわけです。もう止めたくなる、自分が情けなくなるということが、何度となくあるんですが。

 そういう壁にぶちあたる度に、「成功の要諦は成功するまで続けるところにあるんだ」とか、あるいはまさに、「新しい人間観というのんは、どういうことなんだ」とか、そういうことを振り返りながら、まさに原点に還りながら、その壁をぶち破って、破ったあとに、もう一度、自分で振り返る。「あっ、なるほど、このことを訴えたかったんだな、このことが言いたかったんだな」というのが、一つ一つ、分かってくるんですね。

 これは詳しくお話をしたいんですが、時間が掛かりますから、また皆さんと次回、いろいろ縁があると思いますから、その時にゆっくりしたいと思いますが。

 まさに自分でそういう、ものの真理を探究していくという、これは塾では「自修自得」といいます。こっちでよかったですね……自分で自分が納得いくように掴みとるという。ここの中に出てきましたでしょう? 皆さん、お読みになりましたよね、「自修自得って何やねん」と。

 それから面白いことを書いてますね、「政経塾では常任の先生は置きません」とか。要するに、政経塾の基本精神、あるいは教育の基本精神というのは、まさにそういう真理というか、あるいはそういう原点というか、この意味を自分の体験、思索、あるいはそういうトライ・アンド・エラーを繰り返す中で、掴みとっていくというのが、政経塾の教育理念であり、実践方法であるということです。

 この松下幸之助さんというのは― あっちゃこっちゃ、話が飛んで申し訳ないですね、あとでちゃんと収束させますから― 元々、「教育」という事業を、ずいぶん若い時に、戦前から、「自分はいつか富士山の麓で、若い人たちに徳を教える、あるいは経営の原点を教える、そういうような教育事業をやってみたい」ということを、かなり前から言ってみえました。ですから恐らく構想というか、政経塾の構想というのは、ずいぶん前からお持ちだったんではないかなと。

 松下電器には― あとからもお話ししますが― 「物をつくる前に人をつくる」という経営理念があります。よく、これも戦前の頃、松下の「丁稚さん」というのがいまして、これはそれこそ小学校を出たか出ないかぐらいの人たちが、「見習い奉公」ですね、昔でいう、そういうので会社に入ってきた。

 で、「きみらな、お使いに、お客さんとこ行くやろ。そこで『松下電器はなに作ってるんやねん』いわれたら、きみな、『松下電器は物をつくる前に人をつくってます』と、そう答えぇ」と、そういうふうに言われたわけですね。これはおかしな話でしょ。松下ってご承知のように、二股ソケットとかアイロンとか、創業以来、そういうのを作っていたわけですよ。「何で、物をつくる前に人をつくらないかんのや」と。

 これは実は社員の方にいろいろ話を聞いてみても、それは非常に不思議だと、あるいは疑問だということを言われる方、非常に多いです。「何で疑問なんですか?」と訊いてみると、「メーカーだろ、メーカーは商品が命や。商品を喜んで貰って、お客さんに、それで商売と違うんか。そしたら人をつくるのは、関係ないやないか」と。

 実は幸之助さんが言いたかったのは、そうやないんですね。まさに「事業は人である」と、つまり人間がやることである。しかも、「金儲けではない」というお考えをお持ちであった。「人間が人間の幸福のために貢献すること、お手伝いすること、お役に立つということが経営の根本であって、お金というのは、これはいわゆる貢献の裏返しなんだよ、貢献をした結果が利益なんだよということを、さんざん言われるんです。

 社会に貢献する、お客さんに貢献するということを言われますが、「なに貢献するんや?」。これ、言葉ではよく分かるんですよ。特に最近は、マスコミとか情報機関が発達してますから、情報化社会ですから、この言葉の一人歩きということで、きらびやかな言葉が、独りでに歩いてますね。ところが、実はこれからずっとお話ししますが、松下幸之助さんの発せられる言葉というのは、言葉の中身が違うんですね。

 これは言語論の中で出てきます。こういう……箱をイメージしてください。これ、箱の皮ですわ。これを……「外延」と呼んで、この中のことを「内包」といいます。これはどういうことかというと、例えば「車」という言葉、一つたとえますね。そうすると、この外延、これは国語辞典に出てくる意味だと思ってください。つまり車輪があって、前に進む仕掛けになっている機械だと、これが「車」。

 ところが皆さん、これ、「車」という言葉を聞いた時に、何を連想されますか? 例えばクラウンとかカローラとか、いろいろありますね、マーク2とか、たぶんだいたい皆さん、そういう車をイメージされるんじゃないか。まさか、いま「車」と聞いて、大八車を思われた方、たぶん少ないんではないかな。

 事ほど左様に、「車」という言葉を聞いて、人間というのは、耳から「車」という言葉が入ってきます。そうすると、頭の中にイメージのデータベースがあるんですね。この中の「車」という言葉に引っ掛かってる、例えば「恰好いい、速い、運転手が要る、ガソリンが要る」という、その言葉の意味、イメージ、こいつに引っかけて、この言葉というものを、どうしているかというと、「理解」しています。

 つまり、一つの「車」という言葉だけを聞いても、ずいぶんと、人によって考え方、感じ方、あるいは経験、全部違います。ですから、いま私が申し上げた、松下幸之助さんが経営理念とした「利益」というのは、いわゆる「社会に対して貢献した結果である」と。 例えばここで、「社会」「貢献」「結果」、いろいろ言葉が出てきました。実は、皆さんこれから幸之助さんの本を、いろいろ読まれると思いますが、言葉の一つ一つの意味を軽く見ないでください。一つ一つに、松下幸之助という人の人生なり、ものの考え方なり背景なり、バックグラウンドなり、経験なりというのが、全部凝縮されてます。

 あの方は― ご承知のように― 小学校を途中でやめられてますね、四年間しか行ってません。そのあとで夜学に多少通いましたが、皆さんのように、読み書きが十分できた方ではないです。それだけに、話す言葉というのは、横文字なんかほとんど出てこないんですね。冗談で― 上甲さんはご存じなんですね、上甲さんがこの間、何かの本で書いてましたが― 松下幸之助が使った横文字というのは、二つあると。何か。それは「ナショナル」というのと、「PHP」だと。あとはほとんど横文字が出てこないという、そんなような話があるんですが。

 それぐらいに、恰好いい文字とか、横文字とか、難しい文字は出てきません。例えば、「何々的」……何ですか、「合理的」とか、「何々的」ってありますね。あれ、現代人はよく遣います。それから「何々化」……「高齢化」とかね。ある人の話を聞いて、「何々的」とか「何々化」という言葉が、たくさん出てくる人は、「ああ、この人は内容のない人だな」と思って、まず差し支えないでしょう。あの「何々的」とか「何々化」とか、あるいは横文字とかっていうのは、結構、自分がよく分かってないことをごまかすために、逃げる言葉としてよく遣われるんですね。それだけ、曖昧なイメージを持った言葉だと。 それが読んでみると、ほとんど出てこないですわ。非常に平易な言葉ばっかし。だから読んでると、「何や、この当たり前なことを当たり前のようにして言って」というんですが、実は私あとから触れますけれども、松下電器で経営改革のいろんな経験をさせて貰う中で、いろんな制度とか仕組みとか、過去やられてきた業績とか、目にして、「なるほどこういうことで、『ダム式経営』というのを使ってたんだな」「『自主責任経営』というのは、こういうことなのか」というのを、現実の仕組みあるいは制度、実態を見ながら、初めて平易な言葉の意味というのが、深めて分かってくるんです。

 事ほど左様に、皆さんが読んでいる「塾是」「塾訓」「五誓」というのは、まさに練りに練った、幸之助さんの成功哲学の凝縮であると。これは恐らく、政経塾、いままで卒業生、百六十から百七十名ぐらい出たんですかね、その人間は口揃えて言うと思います。皆その言葉の意味、いわゆるここでいう「内包」ですね、これが経験を通して、苦労を通して分かってきたと。だから政経塾で何を勉強したのか、何を学んだのかといえば、まさに「塾是」であり「塾訓」であり「五誓」であるということを、皆、口揃えて言います。

 一応― 話があっちゃこっちゃ飛んですいませんね― 今日、皆さんにお配りしたレジュメ……かなり、第一部、第二部ということで、四部まで作ってます。先ほど、甲斐さんにはご理解戴きまして、「これだけ全部、二時間で話しなさいというのは、到底、できるものじゃございません。ですから今日はキリのいいところまで、話させてください」と。あまりはしょって、飛ばして走っても、理解がなされないと思いますし、先ほどの島本さんの「塾是」「塾訓」を読んでいるのを聞いて、「そうか、俺が入塾した時と変わんねえな。そしたらやっぱり基本から、きちっとお話ししたほうがいいな」ということを、つくづく私、思いましたから……。

 いや、あのね、こう申しますのも、私共の、私、7期生でしょう。ここにいらっしゃる大先輩、甲斐大先輩も先輩なわけなんですが、はっきりきちっと喋ってくれる人、いないんですよ。ほとんど……「本でも読んどき」とか、あるいは自分が会った時の印象ぐらいとか、断片的には教えてくれましたけれども、体系だてて教えてくれる人はいませんでしたから、逆にいうと、きっちり、そういうことが体系だてて教えて貰えたら、もう少し生産性が良く、理解できたかなと。

 正直申し上げて、今日、こうして幸之助さんの話ができるまで、だいたい十年近く掛かってます、過去の私自身の経験も踏まえて。ですからそれをいかに生産性良く、皆さんにご理解戴くか。

 やっぱり今日、はしょらなくて良かったと思います。やはり基本が第一ですね。いまこうして皆さんにお話ししても、表情がやっぱり違いますね。先ほどのように、「同じ一つの言葉でも、意味があるんですよ」なんて話をすると、皆さんの頷き具合が違うなと。ですから意味をはしょらずに、お話をしていきたいなと思いますんで、多少、あっちゃこっちゃ行ったり、まどろっこしいかもしれませんが、その辺はご容赦戴きたいと思います。 

 それで、先ほどのレジュメに、もうひとつ戻りましょう。ということで、私自身はそういう、幸之助さんの本を読んで、2)番ですね、序章の2)、松下幸之助さんの考え方に触れたわけです。実はその松下幸之助さんの考えられた人間観というものを見て、「なるほどそういう思いで、政経塾を創られたのか」というのが、本当の意味で分かってきました。 つまり、どういうことかというと、大きくは、当時確かにオイルショックのあとで、ちょうどスタグフレーションといいまして、インフレと失業が(物価上昇と景気後退)同時に来るという、世界的な危機があったりとか、ちょうど政治腐敗が始まった直後ですかねロッキード事件があったりとか。あるいはまた、日本の中においても、教育問題が叫ばれたりとかいうようなことで、確かに日本の状況、あるいは今後の行く末を見た時に、じょじょに、そういう高度成長の綻びが見えはじめた、ちょうど、時期でした。公害なんかもちょうど叫ばれてる時期でしたね。

 ですから、そういうことを捉えてみても、確かに今後、日本はどういくんだろうかというのは、財界のいろんな方々も、やっぱり心配されていたし。ところが、どうもこの「人間を考える 新しい人間観の提唱(真の人間道を求めて)」というのを読んでみると、どうもそういう思いで創られたんじゃないなと。これはいま私自身、まさにその意をより強くしています。

 どういうことか。幸之助思想の原点は、「生成発展」ということなんですよ。生まれて成って発展していくという。このことを言った時に、だいたい議論は分かれます、「そやけどな、きみ、人間の一生を捉えてみたって、生まれて、偉くなってやな、成長してやなそれで最後、死んでいくやないか。会社かて、会社九十年説とか三十年説とか、寿命があるといわれてるわな。それを捉えた時に、『生成発展』やないやないか」という言葉が出てくると思いますが、この言葉は、さらにその上をいってる概念です。 

 つまり、「そうはいうものの、本当に長い長い、一万年とか十万年とかいう、そういうロングタームで時代を捉えた時に、人間を見てみい。原始時代に、まさに食うや食わずでそれこそ野っ原で、牛とか鹿のあとを追いかけて、狩猟生活をしてきた時から比べて、いまわれわれの生活を見てみいや。こんなに便利な世の中になってるわな。それは途中、凸凹はあるかもしれんけど、これは『生成発展』やないか。  

 それはたまたま、アメリカが発展し、イギリスが発展し、それは国が変わってるかもしれへんけれども、長い目で見たら、人間として、どんどん、人類として発展しているやないか。しかもその発展というのは、前の人がぽしゃって、こっちの人が新しく出ているけれども、こちらでやったことを、新しい人は吸収して伸びてるやないか。だから長い目で見たら、『生成発展』なんや。

 森でも、自然でも、皆、『生成発展』や。自然、見てみい。『生成発展』やないか。人間もそうや、社会もそうや、皆、『生成発展』してくんや」。

 これが経営においても、ものの考え方においても、人生においても、根底の中に流れている、まさに……何ていうんですか、「信念」以上のもんでしょうね。「人生」そのものみたいな感じですね。そこから全て来ている。

 この辺の話を、ちょっと詳しくしたいんで、三ページ目をちょっとご覧ください。これは私自身がオリジナルで作った絵です。松下幸之助さんの思想とか考え方というのは、いろいろと、あっちゃのことを言ったり、こっちゃのことを言ったり、本を読まれたら分かりますが、非常に散漫というか、体系だててない感じを、多少受けられると思いますが、私は今日の皆さんの話に間に合わすために、とにかく練りに練りました。練りに練って、「こういうことなんだろう」ということで、自分なりに作ったのが、この絵であります。たぶんこの絵の中に、全て凝縮できたんではないかなと。もちろん、内包はもっと深いですよ。だからこれを見ながら、皆さん、勉強を進められたら、もっと深い理解が進むのではないかなと思います。

 これは幸之助思想の体系樹、つまり木です。木ですから、ご承知のように、土の下には根っこがあります。そして木を支えている一番中心になるのは、幹であります。その上に枝葉がありまして、当然この中には、実がなるんでしょう。

 この木も、生まれた端(はな)というのは、もちろん「種」から生まれてきます。双葉が出て、じょじょにじょじょに大きくなってきました。その中では、風雪に耐えながら、台風に耐えながら、日光を十分に浴びながら、あるいは照る日もあるだろう、曇る日もあるだろう、そういう中で、この木が成長してきたと。大きな「松下電器」、あるいは「松下幸之助」という大木が出てきた。

 ですから、これは成長した、あるいは完成した、あるいはなし遂げたあとの松下幸之助さんの姿です。いいですか? 松下幸之助さんの本とか発言というのは、過去何十年間の間に、ずーっとされてます。その時の環境、その時に置かれた経済状況、あるいは経営の問題、それが随所に、その言葉の中に表れているんですね。ですから「いつ言った」というのは、非常に重要です。

 しかも、西武の堤義明さんに言わすと、「松下幸之助さんほど、何度も経営のスタイルを変えた人はいない」というふうにいわれます。最初、創業期から、「命知」といわれる昭和七年……あの人、大正七年に創業されてますから、二十三の時ですかね、大阪電燈、いまの関西電力を辞めて、体のいい話が、上司と喧嘩したわけですね。新しいソケットの改良品を持っていったんですけれどもね。

 そこから始めて、まさに「命知」といわれる、自分自身がなぜ経営をしているのかという、その使命というのが分かったと、それが昭和七年です、三十八歳の時。その時までというのは、まさに率先垂範の経営である。「自分が先頭を突っ走るんだ」、「俺についてこい」という経営ですね。

 いまでは、松下幸之助さんといったら、「経営の神様」、まさに文科系の典型みたいな人だと、お思いでしょう? ところがその当時というのは、三十歳になるまでというのは自分自身が考案した物というのが、ものすごい多いんです。まさに「エンジニア」なんですね。

 昭和十六年に、松下電器の特許の番付というのを発表されて、東の横綱というのが中尾哲二郎さん、松下電器の大番頭さんです。この人が、実用新案が……特許が七つ、実用新案が一〇一個、合計一〇八つでトップです。実は松下幸之助さんというのは、特許を……特許をですよ、八つも取ってるんですよ。実用新案が八八個、つまり九六個で、堂々と西の横綱、つまりナンバー2なんですよ、登録件数でいくと。これ、皆さん、そんなのご承知でしたかね?

 そのぐらい、要するに考える、まあ「エンジニア」ですよね。エンジニアというと、どっちかというと、あまり社交的ではない人が多いです。幸之助さんも、そういう傾向が強かった。いわゆる非常に研究に没頭すると、寝食を忘れて、それに集中したりとか、新しいアイデアを練るために、ずーっと考え続けると。その時、ある時に、パッと閃くと。

 ですから、いつもたとえに出される、理想とすべき人物というのは、まさにエジソンとか、宮本武蔵というのが出てくるんです。ご承知のように、エジソンというのは、この電球を発明するのに、「九九%の汗と一%のインスピレーションからなる」というふうに言いましたけれども、トライ・アンド・エラー、いつも失敗を重ねながら、とにかくどのフィラメントだったら点くのかなと。やっていって、最後、石清水八幡の、あそこの竹が一番いいということが分かって、それで発明したのがエジソンの発明した電球なんですね。それぐらいに、トライ・アンド・エラー、研究に没頭するということに熱心な人だった。 宮本武蔵も剣にかけては、まさに自分自身で修行をする。

 頑張って、いいのをつくってください(どなたか、退席なさったのかもしれません)。

 そういう人ですから、この思想というのを、非常に考えて考えぬいた人です。

 この体系図をご覧戴けたら分かります。実は、「生成発展」って、先ほど申し上げました。一番下にこの「宇宙観」って書いてますね。まさに彼は、自分自身はこう考えるんだというあたりの原点を、この「生成発展」というのに置いています。「宇宙は全て生成発展するんである、人間も、社会も、宇宙全体も」。ここから全て、人間観も社会観も来てます。

 一つ、端的な例をお話ししたいと思います。「洗濯機事業部」というのが、松下電器にあるんですね。洗濯機というのは、まさに三種の神器といわれて、高度成長の華でした。当時、新製品が発売された当時というのは、松下というのは後発メーカーでありました、洗濯機に関しては。他社に先駆けられて、あまりいい製品ができてない、不良も多いということで、返品も多かったということがありました。 

 東京営業所、当時、務め(勤め?)られてた営業所長さんが、「これではいかん」ということを思いまして、当時、松下電器ではいわゆる流通部門、つまり販売部門の責任者と製造部門の責任者が一堂に会して、製販会議というのをやってます。その席上で、まさに幸之助さんに― 創業者に― 訴えられたわけです、「いま、流通の販路を拡大しようということで、お客さんに売っていこうとするんだけれども、洗濯機というのが、うちは後発メーカーであって、あまり良くない。売れんのや。これじゃ、どうしようもない。何とかして貰わな困りますね」ということで訴えた。

 製造側には製造側の言い分もあって、それに対していろいろと、言い訳を言っていたわけですね。その話の二人のやりとりをずっと聞いてて、創業者が最後、言ったわけです、幸之助さんが。「きみな、洗濯機事業部長、どないするつもりや」というふうに訊いたわけです。それで洗濯機事業部(部長?)が、何と答えたかというと、「三ヵ月待ってください。三ヵ月あったら、どこにも負けない商品を作って、お見せ致しましょう」。

 普通、ここまで言いますと、皆の席上でここまで言うんだから、「そうか、よし、待とか」ということになりますよね。何と言ったか。「きみな、三ヵ月か。よし、待ったろ。そのかわり三ヵ月経って、もしきみ、できへんかったら、どないしよる?」。洗濯機事業部長も言葉がないわけですよ。「きみな、きみの首くれるか?」、幸之助さんが言うわけですよ、「きみの首くれるか?」。

 「首」ですから、普通、サラリーマンだったら、自分がここを解雇になるぐらい、思うじゃないですか。で、安易に「はぁ」つって答えたそうなんですけど、「いいか、血の出る首やで」。要は生首くれと……。これぐらいに、まさに真剣勝負なんですね。

 真剣勝負の原点は何があるのか。まさに、「人間というのは生成発展しなけりゃいかんのや、社会は生成発展しなけりゃいかんのや。いまのこの状況で満足しておるようじゃ、駄目だ。今日よりも明日、明日よりも明後日、日々新た、これでなきゃいかんのや」。

 もう一つ、面白いエピソードをお話ししましょう。「乾電池事業部」というのがありまして、いわゆる皆さんご承知の、懐中電灯というのを作ってたんですね。当時、その乾電池事業部というのは、非常に幸之助さんが手塩にかけて育てて、そのあとは順調に伸びてた事業でした。

 たまたま、あるきっかけがあって、用事があって、そこに用事があって覗こうということで、たまたま行ったんです。で、自分の部下でありまして、手塩にかけて育てた人間がいまして、「何々くん、きみちょっと乾電池、見せてくれるか」― 懐中電灯ですね― 見て……。それまでは機嫌良く、「元気でやってるかね」とかって、ものすごいご機嫌やったんですよ。ところが、あの人は「瞬間湯沸器」というあだ名を、異名を取る人で、怒りだすと、カーッつって怒りだして、二時間でも三時間でも、平気で怒りだすぐらいな人で。

 その「乾電池、見せてくれんか」、手に取っていじりだして、その瞬間、瞬間湯沸器が沸騰点に達したわけですね。「何々、呼んでこいっ!」って、手塩にかけた部下の名前を呼びまして、「何々、呼んでこいっ!」。来るわけですよ。「きみなっ、どういうことを考えてるんやっ!」、とにかく人が分かるか分からんか、関係ない。もういきなり会ったら、ダーッ、怒りまくる。デーッ、怒りまくって、「何でこの人、怒りだしたんやろ」って、皆、あたふたあたふたなっちゃってね……。

 何を言いだしたかと、「きみね、このスイッチはどういうことだねっ」、「はぁ、どういうことって、こういうことですな」。「これな、わしが作った時のまんまやないか、何も変わってへんやないか。あれからもう何年になるんや。きみな、その間の給料返してんか」と、こうですよ。つまり、いまの現状から次に進化してないということに対して、まさに許すまじき人なんですね。そのぐらいの執念を持ってるんですね、その「生成発展」に対して。     

 会社というものを、あの人は、「社会の公器」というふうに名付けてます。コウキというのは公の器と書いてね。この説明は、一般的にはこうされています。つまり、「人もお金も、あるいは資源も設備も、全てこれは天から戴いた資源であり、物である。一つとして自分自身の私のものはない。それを戴きながら、活かして使う、これが経営者である。もし活かして使えなかったら、これは許すまじきことなんだ。だから私利私欲、私心でもって経営してはいかん。まさに会社というのは社会の公器である」。あの人の文章には、こう出てくるんですが。

 実は、この裏側をもっと追求すると、まさに「生成発展」がベースにあるんです。どういうことか。つまり「人間も生成発展するわな、社会も生成発展するわな。生成発展をするお手伝いをするのが、まさに経営なんだ。相手がいまこの洗濯機を使ってる、『もっと少ない水で洗いたい、もっと短い時間で洗いたい』、そうすると、無駄がなくなるな― もちろんその結果、水道代がなくなったり、他のことができるということになりますが― そういう皆、欲求を持っているはずだ、願いを持っているはずだ。つまり社会が、一人一人が生成発展をしようと望んでいるはずだ。そこにお手伝いをするのが、経営である。どうやってお手伝いをするのか。まさに自分たちの商品を通じてお手伝いをするんだ」。そこにはお金も出てこなきゃ、金儲けという発想は、ほとんど出てこないわけですよ。

 これは、われわれが「資本主義」という考え方に毒されているから、まさにこの考え方が、非常に奇異というか、「理屈だろう」というふうに思うかもしれませんが……。

 日本で最初の経営者って、だれかご存じですか? 日本で最初の経営って何か、分かりますか? 普通、学校で習った人の頭で考えると、たいていは、江戸時代は会社なんてもんはないだろうから、経営なんてもんはないだろうというふうに思いますよね。せいぜい明治からじゃないか。だいたいこの辺で、知っている人は手を挙げるんですよ、「はい、岩崎弥太郎だと思います」。あるいはもっといえば、「坂本竜馬です、あれが最初の経営です」。

 幸之助さんから言わすと、あれは最初の経営じゃないというんですよ。最初の経営って何だ。これは、まさにお天道さんが照って、人間が畑で作物を耕す、あるいは米を耕す(栽培する?)。そうすると、昔は、いわゆる……古い話ですよ、「古事記」とか「日本書紀」とかの話ですがね、卑弥呼とか、あるいはもっと先にいくと、大和朝廷とかありましたね。あれは大本を辿ると、地場の豪族がいて、その中の一つが天皇家、いまの。彼らは地場の豪族たちが採れる、その米を集めて、高床式のこういう蔵の中で管理をして、それをありがたく戴くということで、五穀豊穣を祈って、神にお仕えするという、まさにこれが「最初の経営」なんですよ。

 つまり、そこでは集散でもって、何か物事を図って、それで収穫を得る。米というのはいくつか使い道がありまして、自分たちが食べるという意味がある。それから次の年の種籾にするという目的がある。もう一つは、万が一の備えという、蓄積という意味がある。つまりこれは「利益の分配」ですね。そのことを間違いなく管理するのはだれか。当時、神官といって、神様の管理者、管理者というか……いますね、そういう人たちがいた。これはまさに「最初の経営者」です。事ほど左様に、「お金」という媒体を通じなくても、「経営」というのはあったわけです。

 松下幸之助さんが、これからいろんな本を、皆さん、読まれると思いますが、「経営」といった時に、小は家であったり、自分自身の人生そのものも経営である。もちろん会社もそうだ。いろんな財団なんかの運営もそうである。あるいは地域社会も経営である。国家も経営である。もっといったら、国連みたいな所も経営である。あるいは人類全体も経営である。つまり、そういう捉え方をしてます。

 だから政治がどうとか、経済がどうとか、そういうわれわれが頭の中で、教科書でもって習った概念というのは、あの人の頭の中にはなくて、むしろ、「全て経営だ」というふうに捉えているんですね。だからお金を媒体にするかしないかというのは、関係ない。

 その時の「経営」からいうと、金儲けなんていうことはないわけですね。いかに皆が困らないように、備蓄をしておくか。来年、五穀豊穣で、豊かに栄えるために種籾を投資するか、あるいはいま飢え死にしないように、いまの種籾をいかに公平の分配するか、喧嘩が起こらないように。これはまさに「政治」ですね、あるいは「経営」ですね。

 実は先ほど、松下幸之助さんというのは、政経塾を創った原点というのが、単に政治腐敗だとか、あるいは人間の教育改革だとかいうことじゃないんだ、もっと尊いこと、もっと大きな理想をやろうとしてたということを申しましたが、まさに「日本も、日本人も、いわゆるこの『生成発展』というのを、ベースに考えたら、もっと上にいってなきゃおかしいんだ。あるいは、そうあるべきなんだ。しかも、このことは望めば、努力すれば、必ずできることだ。『成功の要諦は、成功するまで続けることにある』、要はその人に、その気があるかないかだ。望んで努力するかしないかだ」、これを信念の如く、やっていたわけですね。      

 だからいま、「政治改革」だつって永田町で騒いでいる、馬鹿な政治家連中がいますけれども、あんなことをやるために、政経塾を創ったわけじゃないんですよ。むしろ人間が本当に幸せなのか、本当に平和なあれなのかということを考えて、もっと究め、もっと……

宇佐美 ……全然違ったわけです。

 この図に戻りますが。実はこの「生成発展」という宇宙観が、まさにこの根底にあります。この下に「天地自然の理法」というふうに書いてます。この下に、「雨が降ったら傘をさす」というふうに書いてます。これはどういうことかというと、これも非常に興味深い話なんですが。

 ある時、新聞記者から、「松下さん、あんた、ものすごい成功をされたけど、なんで成功したんや?」と訊かれた。その時に答えたのがこれなんです。「いや、わしの経営方針は天地自然の理法に則ってやってんねん。だから特別なことはありませんよ」と言うた。「そんなんじゃ、よう分かりませんがな。あんた、わしをおちょくっとるんですか」と言われた、「もう少し具体的に教えてくれ」。「具体的に言うたらいったら、雨が降ったら傘をさすのが、私の経営方針や」いうわけですよ。これでもよく具体的じゃないでしょ。よう分からん答えをされているわけですけどね。

 この時に、何を言われたかというと、要は「当たり前のことを、当たり前にやったらええんや」と。トイレ入ったあと― 汚い話で申し訳ないですが― ちゃんとあれ、お尻拭いて出てきますよね。あるいは雨が降ったら、当然、傘を持ってりゃ傘をさしますわね。これは当たり前でしょ。ところが、こと経営であるとか、われわれ人間の人生ということになるとか……いうことになってくると、当たり前のことを当たり前にいってないわね。 例えば、目の前でお年寄りが、電車の中で立っておられると。当たり前だったら、「おばあちゃん、どうぞお座りください」つって、自分が席を譲る。ところがなかなか譲れないでしょう。「こんなことやったら、皆に恰好悪いと思われる」か、あるいは「勇気がない」とかね。いいことをやるのに、なんで勇気が要らないかんかなと思うんだけど、われわれ、そういう心理だわね。

 それから会社の経営にたとえますと、物を売って、集金をせん所があるんですよ。「そんな馬鹿な」と思うでしょ。ところがお客さんとこへ行ったら、「いや、うちはいま、金繰りが苦しくてな、今月待ってくれんか」とか、あるいは「手形でもあかんか、三ヵ月の手形であかんか」とかね。とにかく、行っても、集金ようしんで(ようしないで)帰ってくる人が多いんですな、これ。「得意先が言ってることやから」いうことで。

 ところが、そっちに債権持っときながら、自分とこの資金繰りが苦しくなるから、別の所から借金するわけですよ。銀行へ行って、「運転資金、貸してくれませんか」いうて。こういう非常に矛盾に満ちたことをやっているわけね。こっちを制したら、こっち、自然に直りますわな。なぜか知らないけども、われわれは基本で当たり前のことから外れたことを、ぎょうさんやっとる。 

 茅ヶ崎のほうに行きますと、毎回、掃除はせないかんということで、掃除にうるさい副塾長が一人いますが― あとから、その洗礼は受けると思いますけれども― 掃除という当たり前の行為ですら、われわれは、「やらないかん」と思ってんだけど、なかなかやりきれない。「今日は忙しいから」とか「疲れたから」とか、理由を言ってやってませんわな。そういうことなんです。

 だから、複雑(単純?)だとか、当たり前なことなんだけど、当たり前のことをやってないですね、これが。要は、「当たり前のことを当たり前にやったら、世の中は成長するようになっとんねん」、これが信念なんですよ。これがいわゆる「天地自然の理法に根ざして」ということなんです。だから大本で、この「生成発展」とか「天地自然」ということがあるわけです。

 それからその次へいきましょう、右側です。「世の中は常に正しいんだ」って書いてありますね。……さあ、おかしなことを言いだしましたよ。本人は、「世の中はいま間違ってる」とかって言ってる人ですよ。ところが「世の中は常に正しいんだ」って言ってるんですよ、ここでは。松下幸之助さんって、一見、こういう矛盾するようなことを言ってるんですが、よくよく言わんとする意味をとってみると、ちゃんと整合性がとれてる。

 どういうことか。「私はあることをやった」というんですね。皆さん、手形というのはご存じだと思います。お金がない時に、融通手形ちゅうことで、「何ヵ月先にお支払いしますよ」と、約束証書みたいなもんです。ある時に― 幸之助さんはいつも、月末になったら現金払いやった― ところが、今月だけ、ちょっと金が物入りになって、現金でお支払いできんというんで、一部だけ、手形にしたいんですね。

 「非常に申し訳ないな」というんで、普通は、例えば三ヵ月なら三ヵ月の金利を、お支払いせんといかんわけです。普通は、そんなもんは払いませんよ、普通のいまの商習慣ではね。ところが、きっちりしてはったんですな。ちゃんと、金利分だけ計算して、金利見合いは現金でお支払いして、大本の部分は手形でもってお支払いする。それは「申し訳ない」といってお支払いする。

 自分は、そんなことをやっちゃいかん、まさに「雨降ったら傘をさす」じゃないけど、当たり前のことを当たり前にするんだと思ってて、そういうことをやったと。そうするとその仕入れ先さんがお見えになって、「松下さんはきっちりされてるな」と。本人からすりゃ、そんなこと褒められた道理じゃなくて、当たり前なんだけれども。

 事ほど左様に、自分がきちっとして誠意をもってやった行動というのは、必ず社会は何らかの形で受け入れてくれるというふうに、言われるんですね。  

 皆さんのレジュメの後ろのほうに、ちょっと付けました。ページを振っております、八ページ以降に、松下電器の歩み、あるいは、松下幸之助さんの人生について書いておりますが。上の所に、皆さんお分かりになりますかね? 一八九四年、明治二十七年から、上から順番にずっと書いてあります。それで、一九二九年、昭和四年という所の右側の所に「砲弾型電池ランプ」という写真が見えると思います、ご覧になれますか? 

 実はこの時の話が、まさにこの「世間は常に正しい」という言葉が出てきた、あるいは先ほど読んで戴いた、「塾是」「塾訓」の「成功の要諦は、成功するまで続けるところにある」と、あの言葉の原点はここにあるんですよ。

 松下電器は、それまで二股ソケットとか、アタッチメントプラグとか……ちなみに、アタッチメントプラグって、皆さん、ご存じかな? 横山さんは、使われたことあります、アタッチメントプラグというのは?

 

横山 ■■■

 宇佐美 あ、そうですか。ここは二十代の方ばっかしだから(笑) 。あの……昔はね、コンセントなんちゅうものはなかったんですよ。それで、この電球の所が、線が来てましてね、天井から。そこに裸電球を差し込むソケットが来てたわけですね。ちょっと、今日持ってきたんですが……そこからいろんな電気製品の電気を取るということで、いろんなコンセントにケーブルがあるじゃないですか、電線が、それを差し込むわけですわ、この電球の所に。そこから電源を取ってたという。

 これはちょっと非常に珍しい写真がある。これはちょっと見えますかね、あとで巡回します。これはいま、炬燵なんですよ。木の炬燵でね。ここから……見えます? 線があって、電球の所から取ってますでしょう、ねえ。これなんですわ、このことを、いまやろうとしているわけ、このアタッチメントプラグというのは。

 で、二股ソケットってあるでしょう。この二股ソケットってなぜ便利かというと、同じ一個の電源から、片一方は電球をとっておいて、片一方、そのアタッチメントプラグで、電線が取れるわけですよ。当時はまさにこれ、高かったり、デザインが悪かったんです。これ、研究に研究を重ねて……実は、この上のほうの……ネジ巻くとこあるでしょう、ねじきってる所、これ、古い電球の使い古したやつを集めてきまして、それにこの下のほうのプラスチック― 当時、「練り物」といいました、いろんな調合の秘密があったんですが― それをくっつけて、非常に斬新なデザインで、よそさんよりも三割ぐらい安くできたんです。これが最初の製品でした。これが爆発的にヒットしたんです。

 その次に、「二つあったら便利やな」と。つまり、一個を電球で使うでしょう。そうすると、それを外さないと、電気は取れないじゃないですか。じゃ、二つあったら、両方使えるなということで、工夫して作ったのが、この二股ソケットというやつですわ。これで爆発的に売れたわけね。

 当時、要するに工場、これは松下の歴史館というのが、門真にありますから、一度また……2期生の方は行かれたそうですが、行かれたらいいと思いますがね。そこに、当時の幸之助さんと、むめのさんという奥さんと、それから三洋の創業者の井植歳男さんと三人で、町工場を始められて。これを読まれた方はそのへんのこと、お分かりになりますね。 その時に作っておられた工場で、この「練り物」の工程というのは、いわゆるいろんな材料を調合しまして、こう……こてこてと練り込みまして、上からコッテンコッテンと、餅をつくみたいな形で突いたやつを、今度は炉がありまして、その中で燃すんですよ。燃すというか、温度を掛けるわけね。と、ドロドロにとろけます。とろけた物をある程度冷やして、ホットプレートみたいなのが置いてあって、そこに温度が冷めないように、とにかく加工成形できるように、そこに温めておくわけですわ。常温である程度、粘土みたいな形になって。それを必要な分だけちぎってきまして、この鋳型、いわゆる金型でもって上からぐーっと、ロールでもってガッチャンとやって、これをずーっと外して。そうすると、こういうのができるわけです。

 実はそのソケットを、最初に自分で考案されたわけですよ。だから相当な技術屋さん、エンジニアでしたわね。ところが売り出してみたものの、全然売れないということで、技術をいろいろと、練りに練ったんだけれども、うまくいかなかった。

 ちょうどその頃、カワキタゲンキという、扇風機を作っている会社があって、当時は陶器でもって、碍盤(がいばん)といいまして、スイッチ、こう差し込むわけでしょ。風量調節したりとかいう時に、絶縁体で、電気を通さない板が欲しかったわけですね。ところが、こう……回していると力が入って、下の碍盤が割れてしまうケースが多いんですね。それで強度の高い、プラスチック製の碍盤を調達したいということで、ちょうど製造業者を探してた。

 そこへ、ソケットのほうは売れなかったんだけれども、たまたまそのあれがあるということで、技術があるということで、「松下さんとこ、お願いします」ということで、最初はむめのさん― 奥さん― が、質屋に通いたおして、大変な状況だったんだけれども、何とか受注があって生き延びたと。

 生き延びたどころか、千でも二千でも……他にやる所ないし、当時、松下というのは、それこそ金の亡者みたいなところがあって、安くやるためには何でも工夫するというとこで、いわゆる二畳の部屋と四畳半があって、四畳半のこの部屋の畳を全部あげちゃって、そこを工場にしまして、なおかつそれでも狭なったということで、棚を吊るんです。棚を吊って、下も工場、上も工場って……。

 考えたら分かるでしょう。この辺の、この辺のスペースですよ。天井はもうちょっと高いんでしょうけど、ここ半分に折って、その上で働けつって……。ある時、お得意さんが来て、「きみんとこは、なんだな、アフリカから奴隷船で、お前、奴隷を引っ張ってくるみたいな工場でやっとんのやな。どうりで安くできるはずやわ」いうてね。その狭い工場で、なんと二十人ぐらいまでの従業員が、働いていた時期があるという、最高の時は。そのぐらいやっていた時。

 実は自分も、五代自転車店という所に丁稚奉公してましたから、それで自転車に関する製品を作りたいというんで、この自転車ランプを思いついた。これがさすがにエンジニアらしいですね。結局、先ほど、「世の中のお役に立とう」という話をしました。進歩、向上、生成発展のために、われわれはやらなきゃいけないと。当時、エンジニアとしても円熟しているし、非常に儲けだしたところだ。だから自分としても自信があったんですね。それでこの自転車ランプ、研究に研究を重ねまして……。

 当時、箱型でマンガンを燃やしてやるという自転車ランプが一個あった。それと、箱の中に風除けでロウソクを立ててやる自転車ランプがあった。ところが、風が来ると消えちゃうんですね。マンガンのほうもすぐ燃えてしまうという。昔のフラッシュみたいなもんですわ。それで、何とか電池でもってやれる方法はないだろうかということで、研究をしたわけです。当時、電池でやる物もあったんですよ。ところが二時間とか、それぐらいしかもたない。そうすると、自転車だから、片道三十分の所へ行きゃ、行って往復で、二日間でなくなっちゃうわけですね。しかも高価だったので、これはだれでもが使えません。 それで研究に研究を重ねて……研究に研究を重ねてって、自伝には書いてあるんだけどどんな研究をしたか、お分かりになりますか? 私も理工系出身だから、このへんはよく分かるんですよ。何やるかというと、抵抗体ありますね。つまり電圧をこっちから掛けますから、真ん中の抵抗をいかに少なくするか。あるいは風除けとか、そのへんをうまく工夫することによって、あるいはランプを、同じ光源でありながら、後ろに光る反射体を付けることによって、より小さなランプでも、より大きな光になりますね。そういう工夫をしたわけです。つまり抵抗を少なくするとか、より大きなルクスの光が出るような、工夫はできないだろうか。これに研究に研究を重ねた。その結果、だいたい三十時間から四十時間もつ電池が生み出された、電球がね。     

 ところが、いままでお取引があった、このソケットとかアタッチメントプラグを売ってた、いわゆる電材の代理店、この電気資材の代理店に売りにいったんだけれども、どこからも断られる、「松下さん、それはあかんで、電池みたいに二、三時間しかもてへんで」と。こっちは研究に研究を重ねて、「いや、そうは言いますけど、これは研究の結果、調査の結果、四十時間もつんですよ」、「なに言うてまんねん、それはあきまへんわ。これは三時間しかもたへんよ」と、どこへ行っても断られる。恐らく、もう皆に説得したと思いますよ、「いやいや、違うんだ違うんだ」……帰ってきて、しょんぼりですわ、「全然取り扱ってくれへん、困ったな」。

 何を考えたか。「これはしょうがないな、販売ルートを変えよう」と考えたわけね。ところがあんまり、その時、高価な物だったですから、最初、量産をして安くするって、これは松下独自の考え方があったわけですよ、その当時から。自分は売れると思ってるからいわゆる電池工場へ行って、木型を作ってくださいとか、全部発注しちゃって、終わったあとだから、「困ったな、売れへん」と。要はどんどんどんどん、できてくるから、在庫は増えるでしょう。そんで、支払わないかんでしょう、月末には現金で。手元の金はどんどんどんどん減ってくる。

 「困ったな、仕方がない、今度は販売ルートを変えよう」。何に行ったかといったら、今度は自転車屋を回りだした。自転車屋を一軒一軒回った。これでもあかへん。何言うかって、やっぱり同じことを言われる。それは真剣ですよ。当時、碍磐で儲けだしたとはいえ、アタッチメントプラグとか二股ソケットを売り出したとはいえ、まだまだ小さな資本ですから、これ、社運を賭けてやってたわけですよ。みるみるみるみるうちに、自分のとこの預金が減ってくるわけですわ。

 「もう三ヵ月しかもたへん、このままいったら」という時に、「仕方がない、いま持っている金で、三人のセールスマンを雇って、実際にお客さんに使って貰おう。使ってもらって、良さを分かって貰って、それでお金を貰おう」と。これ実は、当時、まだ日本で全然なかったんだけど、アメリカでもう既に出始めていた、いわゆる「ダイレクト・マーケティング」という手法なんです。

 べつにそんなこと、勉強してやってるわけじゃないですよ。もう窮地に追い込まれて、どうしようもしゃあないと、もう悩んで悩んだんでしょうね、恐らく。あの時のことは、伝記を読んでもどこでも書いてあります。読まれた方は、その時の話を何度でもご覧になっていると思うけども。

 私も見てきたような形で喋ってますけど、まさにあの時は、本当にイメージが、頭の中に浮かぶような感じですな。なぜならば、われわれも販売店実習とか、選挙の度に同じことを繰り返す。だからよく分かるんですよ。同じ苦労したからね、「あ、なるほど、このことを言いたかったんだな。だから成功するまで続けるところにあると言ってたんだな」というのが分かってきた。だからイメージが、もう滔々と湧くわけですよ。 

 実は最初の一ヵ月、セールスマンに持って回らせた。セールスマンもその時は「楽や」言うわけですよ、「なんでやねん」「売らんでもいいから」。それはそうですな、売らんでもよけりゃ、いくらでもね……配って歩くだけですから、最初。ところがどんどんどんどん、はけることははけるんだけど、一向に売れてきよらん、一ヵ月経って。二ヵ月目、一ヵ月半ぐらいから、ぼちぼち出始めたかなと。ところが二ヵ月目、決算を閉めてみる、まだこれは全然、話になれへん。

 もうこれ、最後、一ヵ月しかあらへん、回収して金を貰って、それで補えるわけがないと、もう在庫の山だと、「もうあかん、どうしようもない」と言ってたあたりの二ヵ月目半ぐらいから、火がつきだした。あっちでも売れ、こっちでも売れ、みるみるうちに在庫がはけた。

 ところがその前までは、もうどうしようもないということで、ご本人も腹をくくってたそうです。それはね、三ヵ月売れずに、しかもどうしようもないから、持ってく■■でしょう。そこまで苦労して苦労して、なけなしのお金をため込んで、そのお金が底をつきはじめたと。それこそ一家離散か、従業員もその頃は二、三十人はいますから、「どうやって食わすんだ」って、経営者だったら、皆、腹くくりますわ。

 そういうことがあって、実はさっきのこのA4、戻ってください、「常に世の中は正しいんである」と、社会観のとこね。さっきの体系樹です。だから、「自分が努力して、誠意をつくして、本当に正しいと思って努力したら、必ずいつかは受け入れてくれるんだ。それは短期的には分かってくれないかもしれないけれども、必ずいつかは分かってくれるんだ」、そう思ったら、勇気が湧いてくるじゃないですか。

 その左にいってください、人間観の所に「素直な心で」ってあります。先ほど、「新しい人間観」の話の時に、「素直な心で」という話をこの講義ではたくさんしますよという話をしました。実はこの「素直な心で」というのは、非常に強いキーワードであります。 まさに、苦境に陥った時にも、くさらずに、社会は必ず分かってくれるんだ、生成発展するのは、宇宙の原理原則なんだ。だから自分がくさったり、あるいは自分の肩に力が入って、「ここまでやったから、絶対売れるんだ」と思い込みを持ったり、それはよくないんだ。こちらがどんなにしゃかりきになって、意地を張ってみたところで、社会というのは受け入れるのに、準備も要るだろうし、やっぱり駄目なものは駄目なんだと。

 だから「素直な心」で、あるものをあるがままに、いいものはいい、悪いものは悪い、そういう「素直な心」でものを見よう。「素直な心」で人の話を聞こう。「素直な心」で向上しよう。だから、こけたらええやないですか、失敗したかてええやないですか、苦労があったかてええやないですか、その段階から一歩でも二歩でも、先に進むことに、全精力を費やしたらいいじゃないですか。  

 これはそれこそ、幸之助さんの生い立ちの立場に立ってください。いわゆる、お父さんが米相場に手を出して、倒産するわけですね。地元では名士の子供で生まれたわけです。和歌山の田舎に住んでいたわけですが、和歌山市内に逃げていった。そのあと、下駄屋を始めたんですが、それもうまくいかなかった。福祉施設がありましてね、大阪のほうに、お父さんはそちらに行かれて、そこの事務員さんというか、用務員さんをやられるわけですね。

 元々、体の弱い家系であって、何人もいる兄弟― 七、八人(九人?)いたんですかねあれは、ちょっと定かでないですが― 全部、ごろごろごろごろと、結核で死んでいくんですよ。兄弟がみるみるうちに、一人、二人……順番に死んでいくんですね。もちろん、当時の経済状況ですから、栄養失調というのもあったんでしょうけども。それにしても、結核で死んでいくと。で、気が付いてみると、自分も結核やというんですわ、ちょうどその大阪電燈に入るぐらいの前の時に。ですから十四、五ぐらいの時ですから……。

 学校つっても、「幸之助、お前は勉強はいいから、出てきて早く、商売人としての腕を磨け」つって、小学校四年生で大阪にお父さんから呼び出されましたからね。いってみたら、体は弱いわ、学歴はないわ、それから身寄りはほとんどないわ、二十四、五の時にはほとんど天涯孤独でしたから、これははっきしいったら、人間の悲惨さというか、惨めさというか、全部背負ったみたいな人ですね。

 私もよく分かりますよ、先ほどお話ししたような経験があるから。何が情けないかというと、食えない経験もそうなんだけど、友達がなくなるとか、親戚中から相手にされなくなるとか、人間に裏切られるというのは、もっと大変ね。ところが、裏切られる相手がいるうちはいいけれども、裏切られる相手もいなくなっちゃうんだからね、天涯孤独ですから。

 まさにそういう……どっちかというと、落ちようのないところまでいってしまうと、人間、あとは何を信じるかつったら、結局、「社会は正しい」とか、「宇宙は生成発展しているんだ」という、そういうことを信じたくなる。信じたくなる中で、精一杯、それを自分の体で経験して、そのことが分かってくれて、なおかつ結果、自分の事業も発展してきたら、どう思いますか? まさにこのことこそ、真実なんだなと、そういう経験をすればするほど、人間の考え方というのは、このことこそ真実であるという信念が、どんどんどんどん深くなると思います。

 幸之助という思想は、考え方は、どんどんどんどん大きな、こういう思想の体系になっていったわけですね。まさにそういう生い立ちから来ている……だろうと思いますね。ですから、この「生成発展」であるとか、「社会は正しいんだ」、それと「共存共栄」ですね、こちら側ばっかが儲けてもしゃあない、向こうも儲けて貰わないと、お互いに仲良くやっていけない。つまり、「俺が俺が」とか、「素直な心」がないと、自分さえ良ければいいということになりかねない。 

 それとこの人間観の所で、「素直な心」の下に、「万差億別」と書いてます。これはどういうことか。実はこれは松下幸之助さんという方が、人間を見る時の、これはいろんな哲学者、あるいは宗教家の方、いろんな方がいわれますが、これは非常に独自の見方、個性的な見方ではないかなと思うのは、この「万差億別」という言葉なんです。

 皆さん、「千差万別」っていう言葉はご存じですね。つまり人によって、考え方、物事の価値観というのは、「千差万別である」という言葉を遣うと思うんです。ある時に、その「千差万別ですね」ってだれかが言ったら、「違う、『万差億別』である」と、「もっと違うんや」という言い方をされました。

 「神さんわな、きみな、地球上に人口は何人おる?」、「四十億か五十億ぐらいいますね」、「全員、違う顔で生んでるわな。一人として、同じ人はおれへんわな。双子かて、どっかで区別できるわな。その顔が違うと同じように、皆、個性が違うんや。皆、持って生まれた良さがちゃうんや」。

 これも、まさにさっきの「知恵、才覚に囚われるな」……ではないですが、人生のどん底で苦労して成り上がった人、まさに人間の苦労人ですから、「俺が上だ」とか「お前が下だ」という見方は、一切しないんですね。学歴もありませんし、お金もないですし、家柄なんていうのは、全然ないわけですから、そうすると、皆、平等に見えるわけですよ。むしろそれぞれの長所が見えるんですね。

 こんな話があります。松下電器に、前、非常に陰気な人がいましてね、一人、いつ見ても暗い顔をしとるんですわ。それで陰気で暗いし、お客さんとこに出せんし、内部にでもそいつがいると、疫病神だつって、言っちゃ悪いけど、蔑ろにされとったわけですよ。その時に、その話を聞きまして、「きみな、そんなすばらしい人がおるんか」― 「すばらしい」ですよ、常識とちょっとちゃうでしょ― 「社長、そんなこと言われますけど、何がすばらしいんですか。あんなの疫病神ですよ、皆、そう言うてますよ」。

 「きみな、ものは考えようやで。松下電器ぐらいになったらな、きみ、得意先でも知り合いでも、いろいろ関係先があるわな。そこできみ、葬式ってどのぐらいあるんや?」、「そうですね、まあ週に二、三回か、多い時で五、六回もありましょうか」、「そうか、その人、葬式係にしたらどうや。きみ、暗い顔しとったら、葬式にうってつけやないか。それは結婚式では問題があるがな、葬式やったら、一番それはええやないか」。

 つまり、その人の個性というのは、まさに一概に価値観で、一律的な価値観ではかれるもんではないと。最も忌み嫌われる、暗いとされている人でも、言い方は語弊があるかもしれませんが、「使い道がある」ということですね。彼は、「経営者というものは、まさに適材適所、その人の― 『万差億別』― その人のいい所を見て、その人が最も活きる場所に、その人を配置して、活き活きと生成発展してくれる、個性が発揮できる、そういう仕事に振り向けるんや、あるいは働いて貰うんや、それがまさに経営者の仕事や」。

 「それはな、きみな、自分が活かされる仕事をしてたら、だれかて一生懸命働いて、それは可能性を最大限、発揮しますわな。そしたらきみ、『わしはこれだけの給料しか取ってへんから、こんだけしか働かへん』という、そういうけちなことはせえへんわな」。だいたいそうなってるんですな。経済原理からいっても、活き活き働いている時は、べつに「給料をこれだけ貰ってるから、これだけしか働かん」なんて、そんなせこいことを言ってませんわね。たいてい、給料の何倍分も働いてますわな。

 松下電器が大きくなった、成長したというのは、まさに原点はそこでしょうね。

 PHPにフーゴさんつって、国際部という所に、松下幸之助の理念を研究されている方がおみえになって、その方が、前回いろいろお話を聞いた時に、こんな話をされてます。松下幸之助の理念を英語で言うとしたら、「rational humanistic management」、つまり「rational」、「合理的な」、しかも「humanistic」、つまり「人間性を重んじた経営」だというんですよ。

 これ、あれだけ西洋的な合理的な民族が、「合理的であり、ヒューマニスティックだ」という、全く違う概念を一緒にくっつけてんですから、それだけコンフュージョンしているんでしょうね、頭の中が、混乱していると思います。

 まさに松下幸之助という人の理解は、その二つを融合しているんですね。しかもものすごく、相矛盾することなく、融合しているんですよ。つまり一面から見ると、非合理な、まさに人間性の可能性を発揮させることに、最大限苦労されていると。ところがそのことを追求すりゃ追求するほど、つまり「生成発展」ということを追求すればするほど、結果としての利益であるお金も、「入ってくるんや」と、「このことは相矛盾することではないんや、両方一緒なんや」。

 最近、昨今、私も会社の経営の改革をずっとやってまして、リストラとか、リエンジニアリングとかいう言葉を、皆さん、お聞きになったと思いますね。あれはどういうことかというと、バブル経済がはじけまして、当時バブルの時期に、「これから高齢化社会を迎えて、少子化社会で、若手の労働力がなくなるから」というようなことで、あるいは「今後どんどん、まだ経済が発展するから」というようなことで、読みを誤った経営者が、余分に人を雇った、あるいは設備に投資したというようなことで、固定費というものが、つまり月々の賄い賃ですわ……いうものが、非常に掛かるようになった。「しゃあない、もうやってけん」ちゅうことになって、「首切るか」ちゅうことをやったわけですね。

 実はここの年表にもありますように、昭和四年ですか、松下もご多分に洩れず、いわゆる世界大恐慌― 一九二九年の― あれの影響をもろに食らいまして、まさに在庫の山を抱えるようになった。ところが先ほど言ったように、自分でご苦労されてる、まさに人間味というものを苦労された。しかも、「人間というのは万物の王者である、生成発展こそ全てだ」というような人ですから、その時にどう対処したか。「首切りはうちはやらん」と。

 これは番頭さん二人が、(幸之助氏が)ちょうど西宮のご実家で寝ておられたんです、病気で。そこへ行って、「大将、もう何ともなりませんわ」というてですな、いってこられた。その番頭さん二人に言われたのは、「きみな、そんなくび切るなんちゅう、情けないこと言うなよ。きみは血も涙もないやっちゃな」と。「うちは首切らん」と。

 いいですか、この「首切らん」というとこまでは、皆さん言えるんですよ、ここから先が重要です。「首切らん」というとこまでは、「humanistic management 」です。ここから先は、金の亡者になりますからね。どう亡者になるか。「いいか、工場をこれから半ドンにせえや」。つまり一日中、操業するなと、つまり生産量を半分にせいと。「事務員だろうが工員だろうが、全員、製品を持って売り歩け」と。つまり販売員を、極端な話倍であるとか三倍であるとかに増やすわけですね。「全員やれ」と。

 当時の不況というのは、皆さんご承知のように、いわゆるニューヨークのウォールストリートで、大暴落が起こったことから端を発して、世界恐慌です、なにも日本だけではない。しかも台湾銀行が倒産をするということで、銀行の取付け騒ぎがある。大変な時期だったわけですね。だから一松下電器の問題ではなくて、日本全国の問題であったと。

 ですから首切りなんか、当たり前なんですよ。首切りどころか、会社がどんどんどんどん倒産しているわけですから、世の中で、巷に失業者が溢れかえってるという中で、皆、生活に不安を覚えていたわけですね。それで番頭さん二人が、西宮から帰ってきて、皆にそのことを伝えたわけですよ。「皆、御大将はな、幸之助さんは、こう言いはった、『皆の首は絶対切らん、そのかわり、要はやってくれや、皆で持って回れるんやで』」。

 まあこれで、皆、喜々として売って歩いたと。ものの二、三ヵ月しないうちに、全部在庫がはけたと。結果は儲かってるでしょう。「rational humanistic 」って分かるでしょう。まさに合理主義を追求することと、人間性を追求することは一緒であると。

 ところがいまのわれわれの考え方というのは、むしろ、「金に使われてる」んではないでしょうか。金儲けが先なんじゃないんでしょうか。「儲けるために、売上をあげるために」、これがまさに松下幸之助さんが、一番嫌ったとこなんですよ。そのために、「自主独立」、「自主責任経営」ということを言ってます。この絵の中の左上の所に書いてますね。

 これはどういうことかというと、松下電器というのは、無借金経営というのを実現したというのは、皆さん、どっかで聞かれたと思います。何のために無借金をしたのか。つまり他人に依存していたんでは、常に経営環境に左右される。だから景気が悪くなった、物が売れなくなったといったら、従業員、首を切らなきゃいけなくなる。

 ところが、日本の戦後の経営を考えて貰うと分かるんですが、自己資本というものがないです。外国から外資を集めてくるほどの、信用もありませんでした。ですから皆、土地を担保に入れて、借金、借金で賄ったわけです。そうすると、借金の利息を払っていかなきゃいけない。なおかつ、その利息を払ったり、あるいは工場を早めに建てて― 借金をして― それで他人よりも先に生産能力を増やして……ということを、どんどんどんどん自転車操業のように繰り返していった。

 だから、景気が悪くなる、一旦、不況になってくるということになると、従業員に給料を払わなきゃいけない、手形を落とさなきゃいけない、借金の利息を払っていかなきゃいけない、元金の利払いをしなきゃいけない……ということで、まさに、首が回らなくなるわけですね。

 世の中小企業の経営者は、何を考えているかというと、大半がこの資金繰りと、あるいは税金の悩み、八割九割がそうです。そうなりますと、「お客様第一」とか、「自分の事業をどう発展させよう」とかいうことを考えるんじゃなしに、まさに何を考えるかつったら、「従業員に給料を払うために儲けなきゃいけない」、「借金の返済をしなきゃいけないために、売上をあげなきゃいけない」。だから従業員に対してもノルマを課して、「ほら行ってこいっ」というわけですよ。ところが、「社長、何のためにこれを売ってるんですか? これを売って、われわれはどうなるんですか?」ということに対して、答えをまともに言える社長というのは、非常に少ないです。

 幸之助さんはそうじゃない。まさに「自分の力、自分のお金、自分の資源でもって経営しよう、これが自主独立やろ」と。これ、いろいろ言う人もいるんですよ、「伸びる時は借金をしてでも、伸ばしたほうがいいんじゃないか」。それは確かに、そういう考え方もあります。しかし頑として、それは聞かない。それはそういう価値観、そういう考え方がある。

 つまり、自主独立をし、他人に依存しない、そのことによって、本業に徹することができるわけですね。本業に徹するためにはどうするか、どういうことかというと、本業に徹することによって、社会に貢献できるわけですよ。本末転倒にならないわけですよ。従業員に給料を払うとか、利息を払うために、売上をあげるんだという、己の私利私欲を前提にしながら、経営を回すという考え方じゃないんですね。純粋に、「世の中のために、社会に貢献しよう」、その裏返しで、「本業に徹しましょう」。

 だからここに書いてあることは、まさにあの人の経営哲学であり、実践をされてきたことです。随所にそういう考え方というのが、いまでも松下電器の経営の根底には、流れているということですね。

 それで、こういう考え方、哲学というのが前提にあって、いろいろと会社のやり方、あるいは経営のやり方というのが成り立ってます。まだ細かいことについては、次回、お時間を戴いてお話をしたいんですが、このページだけ、キリがいいんで、終えるようにしたいと思います。

 この「経営理念」ですね、真ん中の幹。実は、「経営にとって一番重要なものは、経営理念である」と、これは幸之助さんの本、あるいは発言を、ずーっと聞いて、一貫して言われていることです。その経営理念とは何かというのが、この右と左に書いてますね。まず、「何のために経営を行うのか」。つまり社会的な存在意義、あるいはその会社の目的です。それから左手に書いてますように、「どのように経営を行っていくのか」。つまりこれは経営の方針、やり方の問題であります。

 実は、右側、「産業人たるの本分に徹し」、これは要は、財テクで金を儲けたりとか、変な金貸しをやって金を儲けたりということでない、姑息にやるんじゃなくて、本業に徹しなさいと。で、「ちゃんと儲けなさい」ということですね、「本分に徹する」ということは。

 それから、「社会生活の改善と向上を図り」、これはまさに自分の事業です。自分の事業の中身は、まさに社会生活の改善と向上を、たまたま電化製品とか、そういう切り口で始めましたが、いま松下電器というのは、家電製品というのは、三割しか売上がないんですね。それだけ、昔の松下のイメージはなくなりました。「総合エレクトロニクスメーカー」ということで、半導体を作ったりとか、システムキッチンなんか作ってますからね。そういうぐらいの幅広いことをやってます。ですからいまは、電化製品ではないですが、「人々の社会生活の改善と向上を図る」という、そういう事業ですね。自分はこういうやり方をやるんだと。

 で、最後、「世界(社会?)文化の進展に寄与せんことを期す」、つまり社会にどう貢献するかという話です。常にこれをやるんだと。 

 それから左のほうにいってください、どのように経営を行うか。先ほどから何回も言っているように、「利益というのは社会貢献の結果である」と、ここまでは美辞麗句として皆さん、お分かり戴けると思いますし、先ほど私が申し上げた、「生成発展」のために、まさに貢献するんやということは、お分かり戴けると思いますが、実はその下を見てください、「赤字は罪悪だ」と。これが恐らく幸之助思想の、端緒(顕著?)に出ている部分だと思います。 

 昔は、つまり「士農工商」ということで、いわゆる商人というのは、最も低い身分だとされてた、江戸時代まではね。だから幸之助さんは、まだ明治の二十七年かな……生まれですから、その影響は多分に残っていたわけです。しかも和歌山の田舎ですからね。そんな中で、まさに「儲ける」とか、「商人」なんていうのは、基本的に― 言っちゃ悪いですが― 卑下(蔑視?)されているというか、おとしめられているというか、そういう社会環境にあったわけですよ。

 そういう中で、この「儲ける」というのは、非常にわれわれの心の中でも、罪悪心を感じますよね。最近でさえ、資本主義がこれだけ発展してきましたから、そうでもないですが、当時はそうではなかった。「儲ける」なんつったら、おこがましかった。ところが、彼は正々堂々と、「儲けなあかんねや」言うてるわけです、「儲けられん会社は罪悪や」と。もっと言ってます、「そこの社長はな、首斬りまではいかないにしても、留置場にぶち込まれないかんと思う」、そこまで言ってるんですよ。

 なんでそこまで言うんか。一つは、「社会貢献をしてないから、赤字なんやろ」、これが一つ目です。二つ目、「儲けた税金の使い道を考えてごらん」。皆さん、経営をされてる方、おみえになったら分かると思いますが、まずいわゆる法人事業税、あるいは法人の所得税、ひっくるめると、だいたい五割、利益は持っていかれます、国に。それと、だいたい株主に対する配当が、二割から三割、配当します。そのうちの六割から七割も、国に持っていかれるんですよ、株主の立場からするとね。つまり、企業が一〇〇儲けたとすると、だいたい六五%から七〇%は、国に貢いでるというふうに思ってください。苦労して汗水垂らしてそれですわ。

 これでいかんのは、結局、日本の場合はそういうことがあるから、あまりにも税率が高いんで、「経費で落とそか」とか、そういう姑息な分に走るんだけれども、幸之助さんは公明正大を旨としましたから、小さな時から、ガラス張りの経営をされていたわけです。 いずれにしても、「赤字は罪悪だ」。つまり、儲けた使い道は、まさに七割なり六割五分は、国に対してお金を払うことではないか。それがなかったら、福祉も教育も成り立たないではないか。しかも福祉も教育も成り立たないということは、国民の幸せが向上しないから、また一生懸命働こうという気持ちにもならないではないか。ということは、「世の中、皆、持ち回っとるんや、だから儲けなあかんのや。赤字を出した社長は、ブタ箱に入れられるべきだ」、ここまで言い切ってるわけです。

 しかしこの言葉、本で読んだなら、表面的な理解だけだったら、非常に語弊がありますよね、誤解するかもしれない。しかし、この枝の根本のところまで、ずーっと繋がってるでしょう。まさに人間観だったり、宇宙観だったり、社会観だったり、この原点からそういう言葉が出てるんだなというのは、お分かり戴けるでしょう。これが彼の経営観、経営理念の骨格を成しているわけです。

 ところが、最近の― 松下電器もそうなんでしょうが― 一般の会社は経営理念というのを、教室で勉強をします。つまり根っこがないままに、地面に穴掘って、幹を立てようとします。だから風が来ると、その経営理念はポンと倒れてしまうわけですね、ほんまもんではないということです。経営理念というのは、そんなもん取ってきて、成り立つようなもんじゃない。まさに自分の経験とか考え方、人生観、全てがこの経営理念に、直結をしているということなんですね。

 だから理屈で勉強しても、自分の経験とか、腹の底まで落ちてないと、この理念というのは活きてこないし、まさに行動に表れてこないわけですね。そういうのが、まさにこの松下幸之助さんの経営理念の深さであるし、重みなんだろうなと。「それがないことには経営者たるものは経営ができない」というふうに、言っておられます。そのことが、この「一商人たるの観念を忘れず」と。

 松下電器は、株式会社に改組された時、昭和の十年代前半ぐらいだったと思います。まず基本的な内規ということでまとめたのの十五条にあるやつで、「将来、松下電器がいかに体を成すといえども、一商人たるの観念を忘れじ」と。まさにこの「お客様第一」であるとか、「お役に立つ」とか、「儲ける」とか、「共存共栄」であるとか、この観念は絶対に忘れるなと。

 しかし、そういう観念を忘れかけてるんで、私がコンサルタントで、いま改革をしてますけどね(笑) 。大企業病というのは、情けないかぎり……あれだけ偉大なカリスマがいた会社でも、そうなりますから、まさにわれわれが日々、それこそ自分の心の中に、こういうことを命じながらやっていかないと、一歩でも気を弛めると……落ちる時は早いですね。そういうことを、重要なことだろうというふうに、私は思います。

 上のほうの、「自主責任経営」、あるいは「健全経営」、「衆知を集める経営」というのがあります。ですから、先ほど言ったように、だれに頼るものでもないんだと。

 「社員家業」というふうに書いてあります。これまさに重要なんですね。大きな組織に所属しますと、「俺一人がやらなくたって、大丈夫だろう。皆がやってるから」という安易な気持ちが起こると思います。ところがこの「社員家業」というのは、一人一人が、皆社長の気持ちでやってくれと。「社員」という「家業」なんだと。つまりお客さんもいるし、自分で判断をし、自分で行って、結果も自分で評価をしなさいと。

 普通、上司が、「きみ、こんなことをやってもらっては困るな。こうしなさい」つって自分のアイデアでやったことを、「ノーだ」と言ったとしますね。そうすると、自分が本当に正しいと思ったら、その上司の命令に従うんじゃなくて、「自分はこうなんだ、こう思ってるんだ」と、上司を説得する権利は部下にあるということを言うんですよ。「ええものは、なんで説得せんねん。きみ、上司が『死ね』言うたら、きみ死ぬんか。死なへんやろ。それと一緒やないか。命懸けで仕事をしてへんから、そういうことになるんやで。きみ、自分の家業だと思ったら、命懸けでやるやろ。家業がつぶれてみぃ、一家心中せないかんで」、そういうことを言われるわけですね。

 ということで、そうなりゃ、全員が経営者です、「全員経営」。私は今日の講義の最初に申し上げた、つまり、「きみたち塾生であるけれども、塾長の観念でこの塾におらないかんで」と。特にこの京都政経塾の皆さんは、まだいわゆる一年生で入られたばかりですが、3期生であるということで、まさに創業期でありますね。松下政経塾の本体のほうも3期生が一番優秀だったという噂が、ちらほら……あるかないか知りませんが(笑) 。

 事務局 ありがとうございます。

 宇佐美 いやいや(笑) 。二番目に優秀だったのは、私の出た7期生ですので、お忘れなく。

 ということで、まあ全員が創業者、経営者の立場で、これから研修に臨んで戴ければ、まさにこの「生成発展」というのは、地でいくと思います。必ず「生成発展」すると思います。問題は、お一方お一方が、覚悟をするということです。

 実はこれは、今日ではなくて次回、このことについて、とくと話をしたいんですがね。私は― ここに書いてあります― 松下幸之助さんの理念については、僕は、世の中で伝えられていることというのは、カップラーメンだなという気がしとんですよ。私は食い物に対するたとえが、非常に好きでね、草団子にたとえてみたり、ハンバーグにたとえてみたり、いろいろそういうものにたとえておるんですが。

 カップラーメンというのは、あれ、製造工程というのはご存じですか? あれ、元々、きちっとしたラーメンを作っておくんですよ。それを、いわゆる非常に高温で乾燥された密封された殺菌室に入れ込んで、そこで蒸留するわけです。つまり水分を全部、抜くんです。そうしますと、味もついたままのカップラーメン、いわゆる乾燥した、かんぱんみたいなものができるわけですね。それを持ってきて、お湯を注いで、水分を元に戻して食べているわけです。

 ところが、ここの中で、カップラーメンのほうが、本物のラーメンより美味いという方は、たぶん少ないと思いますが、どこか違いますよね。最近は非常にうまいカップラーメンというか、インスタントラーメンも出てきましたけれども、だいたい生麺のまま、そのままレトルトしてますでしょう。

 つまり、その時に作った、いわゆる味のコクであるとか、味わいとか、風味とか、まろやかさとか、温度とか、そういったものが、全部、乾燥室で腑抜けてしまうんです。戻して食べていますから、同じ味のようなんだけど、何か足りないんですよね、現物と比べると。

 私はこの松下電器が、いまこういう非常に経営危機に陥ってて、創業者の精神を忘れかけているという中で、改革の仕事をさせて貰っている中で、毎日、つくづく感じるのは、「まさにカップラーメンちゃうかな」と。皆、ことごとく、松下幸之助の経営理念を口にします。なおかつ、「こういうのが松下の考え方だ」ということを言います。しかしそこで見せられているのは、まさにカップラーメンじゃないのかな。本物のラーメンと、どっか違うぞと。

 実は私は何が違うんかなって、ずーっとこれ、考えて考えた。で、一言でいうと、「覚悟がない」。

 今日のこれ、最後にしますね。この話が終わったら、一応、今日の話は区切りをつけたいと思います。

 一つはこの「覚悟」、二つ目が「貪欲さ」。「覚悟」「貪欲さ」「厳しさ」「執念」、結局、一言でいいますと、松下幸之助さんというのは、会社の決算書は自分の家計簿と一緒だった人なんですよ。どういうことかというと、いまサラリーマンは、会社が儲かったか儲からないかということを、自分のこととあまり考えないでしょう。「会社のこと」と「自分のこと」でしょ。勤め人ですからね。これが勤め人であるサラリーマン社長になっても、まだ責任は重いけれども、同じ感覚なんですよ、会社から給料を貰ってますから。 ところが、面白いね、むめのさんって奥さん、「いま、うちの旦那― 幸之助さんだよね― は、お店に行ってます」と言うんですよ。とんでもない大きな、もう上場企業になった時によ、「お店に行ってます」言うんですよ。それから、会社に来るでしょ。「この電球もな、この机もな、全部わしのもの」という感覚なんですよ。それは全部、自分で金を出して買ってるわけだからね、「オーナー」というのは、そういうことですね。

 ちゅうことは、会社が赤字になったちゅうことは、自分の家計簿が真っ赤っ赤だということですよ。つまり会社がどんどんどんどん赤字になって、お金がなくなってくということは、自分自身の貯金がどんどんどんどん、目減りしているというか、借金して生活しているみたいなもんですよ。そうすると、全然感覚が変わるということです。これがいわゆる、会社に関する経営の厳しさであり、執念である。 

 いくつか、お話をしたいと思います。一つ目、これはね― これからお話する話は、一応、録音マイクに入りますが、皆さん、聞いたことは忘れてください、秘話ですから― 松下電器の下請け工場が、門真の辺りにたくさんあります。いまでも、松下幸之助に対して恨みを持っている人が、相当たくさんいます。ある時に、テレビのブラウン管の工場がありました。そこにある部品を納める納入業者がありました。いくつだったか、千個だったか二千個だったか、注文を受けて、その共栄(共営?)会社さんが、松下電器に物を持ってきました、納品しました。ところが松下幸之助がそれを見て、「こんなもん、使いもんになるか。あかん。持って帰って」、こういうわけですよ。

 「あかん。持って帰って」といわれて、これ、丹精込めて材料を買って、やって、「なんちゅう野郎だ」と、怒ったわけですね。その共栄会社さんは何をやったかつったら、ゴミの焼却場あるでしょう、山になって、埋め立ててある、そこに持っていって、箱ごとそれを捨てたんですよ。もうどうしようもない、使い物にならないと思って。

 実は松下幸之助という人は、その夜に、そのゴミの焼却場に行って、箱ごとそのやつを持ってきて、自分で直して修理して、それを使うとるんですわ。それで、あとで何を言ったと思います? 「こんなことやって、あんた、とんでもない奴やな。人間としての弁えも知らんのか、どういう野郎やねん」って、言うわね、それは常識的に。「そんな姑息なことをやりやがって」つって言うわね。

 ところが、理屈は通っとんですよ。「私は何も悪いことはしてません。私がやった行為は、ゴミを捨ててある所に行って、所有権を放棄したゴミを拾ってきて、それで使うただけです」。「それは理屈は分かりますよ、しかしあんた、それ捨てた人間は共栄会社さんでしょ?」、「それは知ってますよ。わしは、これが悪いから持って帰ってくれと言うただけやで、何もゴミ捨て場に捨ててくれとは言うてへん。本当であれば、そこで、どこをどう手直ししたらいいのか、それを訊くのが本当やろう」と。

 だから本人は「生成発展」というのが、頭に入り込んでるから、「捨てたんは、向こうの勝手やないか、自分の所有権を放棄してんのやろ。わしは新たによそから材料を買うて作るより安いから、それを拾うてきて、手直しして使うただけや」。

 ほら、この手の話というのは、山とありますわ。しかし、さっきのこの人間観とか宇宙観とか、話をしているから、よく分かるでしょう? 

 それから、設立当初、副塾長、お世話になった丹羽正治会長ですね、電工の名誉会長。あの方がある時、松下幸之助さんの本店にお邪魔して、創業者、幸之助さんが一生懸命、この机の前で、くーっ……何か字を書いているわけですよ、クックックッ……。「大将、何やってんねやろ」って、そーっと覗き込んだら、何を書いてると思います? 島本さん何だと思います?

 島本 さあ……全然想像もつきません。

 宇佐美 何を書いてるか。「金、金、金、金、金、金……」と書いてるんですよ。これ冗談やないって、本人から聞いたんですけど、「金、金、金、金……」。これですわ、貪欲さ。

 それからこれは塾の中では、非常に有名な話なんですが。あれは4期生の時でしたか、販売店実習のあとに、幸之助さんを交えて、販売店実習の報告会というのがあった。ちょうど当時、ビデオが売れかけた頃で、それである先輩― まだ代議士で当選されてませんが、ゆくゆくはなられるだろうと思います― その方が販売店に行って、その販売店がポルノビデオを三本くっつけて、そのビデオを売っとるわけですわ、販促の材料にしとるわけですわ。

 それで、「松下電器ともあろうものが、こんなポルノを付けて、ビデオなんか売っていいんですかっ?」つって、片一方は青年の主張じゃないですが(笑) 、非常に純粋な時ですから、「松下さんはそんなひどいことはやってない」と思うわけですよ。「ところで、きみな」って、幸之助さんは訊くわけですよ、「ところでな、きみな……」、ちょうどまだ当時は声が分からなくなってきた時ですからね……。

 ちょっと余談になりますけど、その話はあとでゆっくりします。余談になるけど、私の時もそうでした、「ぁんなぁ、きみなぁ……ほんゃぁなぁ……」と、こういう感じになりますね、もう最後のほうね、九十超えて。で、ただ一か所だけ、ちゃんと聞こえるとこがある。「きみなぁ、儲けなあかんで」、ここだけははっきり聞こえる(笑) 。本当にこれは、冗談抜きよ、本当に。「ぁんなぁ……儲けなあかんで」、ここだけはっきり聞こえるんだから。

 で、先輩が「ポルノなんか売っていいんですかっ?」言うわけね、「きみな、ポルノ売って儲かるんか?」。先輩も振り返ると、今日、よう儲かったんですわ(笑) 。よう売れたんですわ。しゃあないから、「はぁ、儲かりますね」、「そうか、儲かるんやったらポルノもええなぁ」。これ冗談抜きで、本当の話なんです。

 実は、松下幸之助さんという人柄というのは、いま伝えられている書物とか、あるいは速記録とか、PHPから出てますね。全部、カップラーメンだと思ってください。そんな人ちゃいますよ。で、恐らく実際の、生の人物像に触れたければ、松下資料館とか、あと政経塾の速記録とかいうのもあります。ビデオとか何かで持ってます。直接、本人の話した言葉を、よく聞かれたらいいですわ。ものすごい人間味のある、本当に「苦労人やな」と。人の痛みがよく分かる人です。それだけに非常にすばらしい部分を、持っておられるし。 

 だから私も「幸之助さん」なんて、さん付けで呼ぶのは、本当は不謹慎極まりないんだろうけど、いろいろ研究すればするほど、本当に好きになりましたね。失礼な言い方だけれども、「師弟愛ちゅうのはこういうことかな」という気もするぐらいです、本当に。知れば知るほど、尊敬するという以上に、やっぱり「好き」というか、いわゆるある意味での「愛」なのかもしれませんけど、そういう気になってきた。

 それはやっぱり、カップラーメンでは駄目ですわ、本生のラーメンを食べない限り。いま、本生のラーメンを食べようと思ったら、結局、そういう直接喋られたこととか、こういう部屋もそうだけど、やっぱり自分で体験してみることです。体験してみて、やってみるんですよ。

 例えば「今日、生成発展と言われたけど、宇佐美さん、俺にとって生成発展って何やろな。じゃ、明日から生成発展してみようか」とか、「素直な心になれって言われたな、じゃあ俺、今日から素直な心になろう」と。「一日一回、素直な心になろうと決めよう。しかしよう分からんな、素直な心って。まあいいや、分からなくても、とにかくなろうと決めたらなれるんや。成功するまで続けたらなれるって言うてるもんな、幸之助さんは」。それを理屈でもって、「いやいや、そうだけど、やっぱりやったってできねえよな」なんていうことを言ってたら、これは幸之助の弟子じゃないちゅうことですわ。  

 ここにも書きましたが、最後に、このことだけ申し上げて、この講義は終わりたいと思います。一ページをご覧ください。これから皆さん、幸之助さんの勉強をされると思います。その時に注意をしておきたい問題が四点ほど。一ページの下に、「松下幸之助 人間研究、人物研究のアプローチの仕方」と書いてます。四つのパターンが書いてます。

 「A 信奉的態度」、これは「松下教」といわれる人たちに、非常に多いです。「松下幸之助は、こういう時にこういうことを言った」という、エピソードだけたくさん知っているんですね。最後、決まり文句、「だから松下幸之助は偉い人物なんだ」。あの島本さんのさっきの所感は、それに近いものがありました。ただし問題は、このあと、ゆっくり聞いて貰ったら、どうなったらいいかっていうのが分かります。 

 それから「B 批判的態度を取る人」。「なんだかんだいっても、こういうことを言ったけど、あれは昔のことだからな」とか、「あれは松下幸之助さんがラッキーだからできたんだよ」とか、つまりいろいろなエピソードとか、言われたことの中から、普遍的な価値を見いだそうとしない人。これで、しかも「何々だから駄目だよな」とか、批判的に捉えてしまう人が、このBのパターン。

 「C 分析的態度」、どことはいいませんが、PHPとか、こういうのが多いですね。学問の対象として捉えてしまう。だから、「何年、どこそこで、何を言った」と、「こういう言葉があるから、こうなんだ」とかね。決して松下幸之助さんの言葉というのは、大学の教授が言った言葉ではないですから、言葉だけ集めてきて、理論的に何か構築しようと思っても、それは意味のないことです。むしろ言葉の意味を、自分なりにくみ取らないと、何にも先に進まない。

 それで私の申し上げたいのは、最後、「D」というやつです。「建設的態度」。私は松下幸之助さんに対する態度というのは、常にこの態度をとり続けてきたつもりです。皆さん、「出藍の誉れ」ってご存じですか? 「青は藍より出でて藍より青し」という言葉ですね。つまり師匠というのは、弟子が自分を超えてくれた時、初めて嬉しいもんだと。

 私は政経塾へ入る前に、そのことを非常に悩んだんですよ。もし松下幸之助さんの弟子になて、かりに自分が偉くなったとしても、一生そのことをいわれ続けるだろう。自分のオリジナルな努力というのは、あまり評価されないんじゃないんだろうか。ところが、一方で思いなおしたんですね。とはいうものの、「出藍の誉れ」という言葉がある。つまり松下幸之助さんが喜ぶには、師匠を喜ばそうと思ったら、あの人を超えるぐらいの人物になればいいんだ。

 現実に幸之助さんは言われてます、「きみらと私と、どっちが偉くなると思う?」、それは向こうのほうが偉いと思うでしょう? 違うんです、言う言葉が。「きみらのほうが偉なるんやで」、「なんでですか?」、「いや、きみらな、わしが九十何年間、苦労したこと全部吸収して、その上に自分自身の努力が積み重ねられるやろう。そしたらきみのほうが偉くなっておかしくないんや。これが生成発展なんや」。 

 つまり、自分が松下幸之助になって、なおかつその言わんとすることを全部吸収して、さらに前に進もうとした時に、初めてこの「建設的態度」になるんですね。つまり、「松下幸之助になろう」、あるいは「松下幸之助の言ったことをやってみよう」、「自分で経験してみよう」、それで初めて悟ることができる。

 だから「勉強した、知った、分かった」じゃなくて、悟らないと、政経塾に来た意味がないし、幸之助さんが本当に期待された勉強には、ならないんじゃないかなというふうに思います。 

 一応、長時間に渡りましたが、ここで……ちょっと時間をオーバーして、申し訳ございませんでした。終わりたいと思います。また次回、機会をつくって戴けるということで、また続きを話したいと思います。機会がありましたら、また皆さん独自で、建設的態度で勉強して戴けたらいいかなと思います。以上で終わりにさせて戴きます。どうも、ご静聴ありがとうございました(拍手)。

 事務局 喋りだすと、四時間は絶対喋る人なんで、今日は覚悟はしてたんですけど……          宇佐美 いやいや、すいませんでした。

 事務局 また、時間を取って、残りの部分の話をして欲しいと思ってます。とりあえずは、これで終わりたいと思いますけれども、宇佐美くん、もう少しいてくれると思いますので、もし質問があれば、個別にしてください。では、今日は、ご苦労さまでした、ありがとうございました(拍手)。

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