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第2章 政治・行政分野における応用事例研究

〜オールド・コロラド物語情報化による新しい民主政治と街づくり〜

第1節 概 要

ロッキー山脈の西、デンバーから南へ一時間程車でおりた所にパイクス・ピークスという美しい山で有名なコロラド・スプリングスがある。人口は約20万人、主要産業は、空軍関連産業、先端ハイテク産業。その昔、ゴールド・ラッシュで栄え、さながら西部劇に出てきそうな古き良きアメリカを感じさせる街でもある。州都として栄えたこの街も、ゴールド・ラッシュの後さびれ、当時石油産業などで繁栄していたデンバーにその座を奪われたのであった。峠を挟んで東西にわかれ、市街地として栄えている東側に対して、今回取り上げるオールド・コロラド・スプリングスと呼ばれる西側地域は、ゴールド・ラッシュの後さびれる一方で、10年前にはほとんど老人しか住まないゴースト・タウンとなってしまった。この物語は、たった一人の頑固な老人によってこの町が目覚め、最先端の情報都市として生まれ変り、民衆が新しい政治の潮流を生み出すまでの10年間を描いた物語である。

第2節 立ち上がる頑固な老人デイブ・ヒュージ

1974年、数々の輝かしい戦歴を残し陸軍を後にした、45才のデイブ・ヒュージは、生れ故郷のオールド・コロラド・スプリングスに帰り、ツアー・アドバイザーを始めた。しかし、生まれ育ったコロラドを愛し、情報化時代に対する強い信念を持っていた彼は、店も家も空き家ばかりの生れ故郷に対して「このままではいけない。」と強く感じた。そして仕事の合問を縫って、たった一人で動きだしたのである。古くからの友人たちを一軒一軒訪ねて回り、「町を何とかしよう」と熱っぽく説き、毎日のように役所へ足を運び、市長に手紙を書いた。色褪せていく町のなかで覇気を失った人たちも、やがて彼の熱意に動かされ、一人二人と賛同していきそしてついに初めてのミーティングが開かれることになった。

第3節 地域活性化会社

ここには町の有力者をはじめ、市当局者、商店主、伝統文化保存者、一般市民、観光関係者など、ほとんどの人たちが集まった。はじめのうちは「税金が必要だ。」「もっと儲けたい。」と、それぞれが自分勝手な主張をして引こうとはしなかった彼らも二度三度と議論を重ねるにつれ、大きく二つの意見に収束していった。一つは「外部から有力企業を招いて活性化しよう」という意見。そしてもう一つは、「政府の手によって町をきれいに整備して改善しよう」という意見である。しかし、ここに一人どちらの意見にも賛成しない人がいた。デイブ・ヒュージその人である。

「大企業の世話にはならず、政府の手も借りずに、自分たちの力で企業家精神にあふれた、新しいビジネスを生み出そう。」というのである。そして彼は問題点であった、(1)建物の老朽化(2)資金不足(3)経営能力の不足を解決するため「地域活性化会社」の設立を提案した。

この地域活性会杜は、まず町全体を一つのスーパー・マーケットのように考え、町の外装は活性化会社の仕事、そして個々の店の中は各自の店の仕事と役割分担を決めた。そして一軒一軒の店が発展しないかぎり街全体としての発展はありえないと考えた。まず各自の店に独立心と責任感を持ってもらうため、店の買い取りを条件とし、いいアイデアのビジネスには積極的に低利で融資し資金的なゆとりを与えた。この意味で彼らは、安定性よりも成長性に賭けたのである。そしてこれらの小さなビジネスが自分の力で立てない間は、経営上の支援を送り続けることに余念がなかった。また、これらの仕事に対して積極果敢に情報化を駆使していったのである。

第4節 地域活性に対する情報化の応用

(1)事務処理の合理化、経営分析

1975年、この活性化会社の設立時にはまずワープロ、会計処理をはじめこの会社自体の事務の合理化のためコンピュータを導入した。そして一件ごとの店の経営について、月々の売上・利益・コストなどの数字からその店の経営状況を把握するための経営分析を行ない、それに基づいたアドバイスをしていった。

(2)電子掲示板・電子メールによる経営相談

1979年、第2段階として彼らは店の経営者たちとの直接的なコミュニケーションを行なうため、電子掲示板・電子メールによって「経営Q&A」という経営相談を始めた。これは経営者がコンピュータに送ってくる経営相談に対してデイブたちが一つ一つ答えていったわけである。また、東部地域の他の電子掲示板にこの町の宣伝を行なって新しい企業家をこの町に集めた。そして、各会杜の売上の集計から町の税収の予測を行ない、5年間の固定資産税の免除、住宅の整備、道路・街路燈の整備など住民の側から市当局に対して思い切った減税・投資をするよう提案を行なっていった。

第5節 新しい民主主義の潮流〜参加型民主主義〜

デイブのこの狙いは当たった。企業家精神旺盛なビジネスがつぎつぎに育ち、芸術家や若者が街に帰ってきた。ゆとりと潤いを取り戻した人々は自然に「自分たちの町を自分たちの手で創ろう。」という気概に燃えだしたのである。そこで1984年デイブ・ヒュージは、市民たちが街の事について討論するための電子会議チャリオット(C-hariot)をスタートさせた。

ここには市民の誰でもが参加でき、交通、下水道、税金、教育など具体的に人々が日頃から考えている疑問や要望を自由にぶつけ合い、その中からコンセンサスを作り行政府に提案していった。やがてこの全く新しい市民運動が色々な所で波紋を呼び、注目されるようになった。そして、より的確に民意を知るために政党や市の政策局員、地元のジャーナリスト達もこの会議に参加するようになった。そしてついに1986年、市会議員選挙で衝撃的な出来事が起こる。

有権者総数16万人、4つの議席に対して11人が争うというもので、しかもこの内3人は人々からの信頼も厚い現職の有力議員、残りの一人は、テレビにもよく登場しコロラド大学で政治を教える共和党が押す有名教授で、ほとんど無風状態であった。しかし理想に燃えるチャリオットのメンバーは、数の上では千人是らずであったが、知名度だけで町を思う熱意のない有名教授に冷ややかであった。そんな時デイブは民衆の立場に立って政治を熱っぽく語る植木屋ウエイン・フィッシャーと出会った。政治資金も知名度もない泡沫侯補と思われていた彼を、デイブは政治信条と政策を書き込むようにチャリオットに率いれた。「君は一体何をしてくれるんだ。」と、市民は素朴な疑問をウエインにぶつけた。ウエインも全力で答える。ごまかそうとしても、また質問が飛んでくる。コンピュータの画

面をとうして納得出来るまで質問は繰り返されるのである。そして日がたつにつれ、やがて市民はウエインの人柄や町を思う気持ちが本物だということがわかってきたのである。

そしてついに市民たちは立ち上がった。ウエインとの電子会議でのやりとりの一部始終をプリント・アウトし、「こんなに素晴らしい信頼できる人がいる。」と、一人一人が進んでそのコピーを色々な人たちに配り始め、ウエインを宣伝して歩いたのである。彼らの熱意によって波紋は瞬く間に広がっていった。一方有名教授はテレビ・ラジオで宣伝を繰り返し多額の資金を使ってこれに対抗した。

そして$15000もの選挙資金を使った有名教授に対して、結果的にウエインはその10分の1以下の$1100しか使わなかった。そしてついに選挙が終わった。結果を開けてみると、ウエインが10600票を獲得し、有名教授に300票差で逃げ切り、4位に食い込んで当選したのである。デイブは喜びにあふれ「これで金や人脈がなくても政策で勝てる事が証明された。これは一政治家の勝利ではなく、政治に目覚めた民衆の勝利であり、本当の意味での民主主義の勝利である。」と語った。

電子会議の世界では、容姿やイメージよりも政治家自身の本質が間われる。それだけに市民との問で築きあげられた信頼関係は本物だといえよう。